武尊神社(群馬県みどり市)異聞録 [1]

ぶうらぶら,歴史の切れ端

隣に幽霊がいたとしても、それに気づかないぐらい鈍感な人間だ。
幽霊というものに一度はお目にかかりたいものだと思いながら、いまだ出会ったことがない。
(いや待てよ....高校3年の時に一度だけ、それらしい「何か」に遭遇したことがあったな。まあいいや。あれは多分....気のせいだろう)

9月10日、廃墟巡りが大好きなA君と桐生、足尾方面に向かった。
いや、正確には「連れて行ってもらった」というのが正しい。
彼が廃墟好きだという情報に食いついた僕を、彼は親切にも案内してくれたのだ。

そのA君からは「ついでに心霊スポットで有名な武尊神社(ほたかじんじゃ)にも寄りましょう」と事前にメッセをもらっていた。

この時まで「武尊神社」っていうのは、群馬県のどこかにある歴史的に有名な神社ぐらいに思っていた。
そういえば今年の春に水上の山奥へ行ったけど、たしか武尊山という山があったな。
だけど、彼のメッセを読んで調べてみるとどうもそこではない。
そこは別の意味で有名な神社だった。

つまり....「ほんとにあった! 呪いのビデオ」で有名になった神社らしい。

(おわかりいただけるだろうか。柱の影に老婆が写っているというのだが、はてさて....)

そんな微妙な前知識のまま、桐生から国道122号線を走ること約1時間。
草木ダム
(草木ダム)
草木ダムの湖畔、富弘美術館の西側の集落を抜け、高常寺というお寺の裏側にその神社はあった。
武尊神社の鳥居
(武尊神社 鳥居)

A君からは「立入禁止の場所らしい」と聞いていたのだけど、実際に行ってみると、特にそういう規制はなかった。
鳥居が崩れ落ちて危険なため、正面の石段が通行禁止になっているだけで社域そのものは立入禁止ではないようだ....というのが僕の都合のいい解釈。
右脇の坂道から何の制限もなく社域に入ることができた。
武尊神社
「うわあ」。
一目みてそう呟くしかなかった。
おどろおどろしいというか末期的というか.....「どよ~~ん」とキャプションをつけたくなる。
武尊神社正面
それにしても、何という造りなんだろう。まるで城や要塞のようじゃないか。
神社が持つ「親しみやすさ」とは程遠いシロモノだ。

もちろん神社には格式は必要だけど、だからといってここまで来るものを拒むような構造にする必要もあるまいに。
正直言って「悪趣味」だと思った。

ああそうか、普通は氏子さんが寄進する「玉垣」などで囲まれるものだ。玉垣がなくて、鳥居をくぐったら正面に拝殿なんていうのはもっともっと普通にある。

(玉垣の一例 – 岡山県倉敷市の荒神社)

わざわざこのような重厚な塀を巡らす理由がわからない。

かなり急な石段を上ると拝殿があるのだけど、ここでも違和感を感じた。
武尊神社拝殿
要塞のような外郭にはそれなりにお金がかかっていそうだ。ところが肝心の拝殿が呆れるほどリーズナブルにできている。
「プレハブ工法」とでも言うのだろうか?小学校の体育館とかでみるような簡素な造りだった。

境内の平地になっている場所に、こじんまりとした社殿を建てたら、もっと立派な建物ができたろうに。
わざわざ段差のある場所にこんな「要塞」を作る必要があったのだろうか。

そんな拝殿の前に、コンクリート製の賽銭箱があった。

みると、その中に棟札が放置されていた。
てっきり昭和のものだと思ったら、そうじゃない。
驚いたことに「明和四丁亥年」と書かれている。

スマホで調べてみると、明和4年は西暦1767年、今から251年前だ。たしかにこの年の干支は「丁亥(ひのとい)」だ。

おいおい、歴史的なものじゃないか。
なぜこんな場所で雨ざらしになっているんだよ。

棟札にはこう書いてあった。

時明和四丁亥年 五月大吉祥日
大工
惣氏子上草木白濱横川三組等

庶寫山延命院 前川宗寛修法
棟梁 横川 高草木重良兵衛
同所 小林平八
同所 同苗平右衛門
小夜戸村 斎藤與次右衛門

かつて、武尊神社が「上草木」「白濱」「横川」という3つの集落の氏神様であったこと。
廃仏毀釈(明治初期にあった空前の仏教弾圧)」以前は、延命院(※1)というお寺と密接な関係があったことが伺えた。
昭和6年の草木地区
(帝国陸地測量部による昭和6年の地図 – スタンフォード大学公開サービスより。地図中央に鳥居のマークがある)

「心霊スポット」という先入観で行ったけど、実は歴史ある神社だったんですね。
神様ごめんなさい。

武尊神社(群馬県みどり市)異聞録 [2]へ続く

(※1)「延命院」と名のつくお寺は全国に無数あるけど、群馬県では川場村のお寺が有名なようだ。
ただしここは「庶写山(庶寫山)」のような山号はつかない。
しかし、このお寺の傍にも「武尊神社」がある。きけば延命院は廃仏毀釈以前、川場村武尊神社の別当寺(神社の管理寺)だったそうだ。
これは推定になってしまうが、棟札に書かれている「庶寫山延命院」も武尊神社の別当寺だったのかもしれない。
おそらく江戸時代までは神社に近い場所にあり、廃仏毀釈の際に廃寺となってしまったのではないだろうか。
廃仏毀釈
(廃仏毀釈の一例。岐阜県中津川市にある「植苗木の三十三観音」。すべての石仏が真っ二つに破壊されている)