ロマン・ポランスキーとシャロン・テートとチャールズ・マンソンとスーザン・アトキンスとテリー・メルチャーとビーチ・ボーイズとビートルズと....

上大岡的音楽生活

何がなんだかややこしいタイトルだけど。まあそういうことだ。

9月27日、ポーランド出身の映画監督ロマン・ポランスキーがスイスで身柄を拘束された。32年前に彼が起こした13歳の少女に対する淫行罪で拘束されたのである。30年前、法廷闘争中にアメリカからヨーロッパへと逃亡したポランスキーが、今になってその罪を問われることになったわけだ。現在、ヨーロッパ中の文化人やフランス政府がポランスキーの世界的に著名な芸術家であることを評価し「円満な解決への道」を求めている。
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(ロマン・ポランスキー)

奇しくもその2日前の9月25日、カリフォルニア州チャウチラにある女子刑務所において、スーザン・アトキンスという女性が悪性脳腫瘍のため亡くなった。享年61歳。彼女こそ1969年にポランスキーの当時の妻だった映画女優のシャロン・テートを惨殺した張本人だった。
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(スーザン・アトキンス)

この「シャロン・テート事件」に関して書きはじめたら、いくらWEBスペースがあっても足りない。あまりにもアレな事件なので他のWEBリソースに詳細はまかせるとして、ここでは簡単に説明する。

この事件は、ヒッピーたちの共同生活体....というか単なるカルト集団「マンソン・ファミリー」の「教祖」だったチャールズ・マンソンが自分のファミリーに指示して起した事件だ。
彼はザ・ビートルズの「ホワイト・アルバム」に収録されているいくつかの楽曲を、勝手に自分あてのメッセージがあると解釈していた。そんな中で極めつけだったのが、ビートルズ版ハード・ロックである「ヘルター・スケルター」だった。


(The Beatles “Helter Skelter")
なお、「ヘルター・スケルター」を書いたのはポール・マッカトニー。彼はこの曲をザ・フーのピート・タウンゼントが「アイ・キャン・シー・フォー・マイルズ」に対して行ったコメント....「この曲は、フーの歴史の中でも最もうるさくて、最も乱暴で、最も汚らしい曲だ」....にインスパイアされて、書き上げた。

マンソンはこの曲を「白人と黒人の最終戦争→黒人の勝利→秩序の崩壊→とマンソンの台頭」と都合のいいように解釈した。彼はその解釈に基づいてある種の「闘争」をファミリーに指示、この事件を引き起こしたのだ。
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(チャールズ・マンソン)
もっとも、マンソンがターゲットとしたのは、シャロン・テート本人ではなかった。後述するように、シャロンはたまたま「あの家」に居住していただけである。マンソンが殺害を指示したのは、音楽プロデューサーのテリー・メルチャーであった。

テリーは日本で戦後初のヒットとなった洋楽「センチメンタル・ジャーニー(間違っても松本伊代のそれではない)」を歌ったドリス・デイの息子。僕個人としてはザ・バーズの「ミスター・タンブリン・マン」や一連のアルバムのプロデューサーとしての印象が強い。
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(テリ・メルチャー)
もともとチャールズ・マンソンにテリー・メルチャーを紹介したのは、ザ・ビーチボーイズのデニス・ウィルソン(ブライアン・ウィルソンの弟)だった。思慮深すぎてノイローゼになってしまう兄貴に比べれば、デニスは自由奔放、何よりもそのルックスの良さもあって、極めつけのプレイボーイだった。
デニスはマンソンの思想に共感し、多額の資金援助や自宅の一部を提供したように言われているが、それほどのものではないだろう。急激に時代遅れになりつつあったビーチボーイズ内においてヒッピーに理解のあるフリをしたかったのと、ファミリーの女の子が目当てだったのだろう。
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(デニス・ウィルソン)
それだけではない。ビーチ・ボーイズは1968年の初頭にシングルのB面として「Never Learn Not to Love」という曲をリリースしている。楽曲のクレジットはデニス・ウィルソンの作品ということになっているが、この曲のオリナル・タイトルは「シーズ・トゥーイグジット」といい、この曲の作者はチャールズ・マンソンその人である。


スティーヴン ゲインズ「ザ・ビート・ボーイズ・リアル・ストーリー」という本にはこのあたりのことがかなり「リアルに」描かれている。

チャールズ・マンソンは自らのレコードをリリースしたいという野望があったし、実際にレコーディングも行っている。
彼が事件直前までにレコーディングした音源は1970年に「Lie: The Love and Terror Cult」としてリリースされている。現在はCDでも入手可能だ。
楽曲はYoutubeでも聞ける

本当のことはわからないが、テリーがマンソンのプロデュースをすると約束しておきながら、それを守らなかったと言われている。マンソンがテリーを恨む原因はそこにあったというわけだ。

(チャールズ・マンソン「ルック・アット・ユア・ゲーム・ガール」)

この間に紆余曲折や別の殺人事件があるのだが、それは省略する。
1969年8月9日、マンソンの指示に従ったスーザン・アトキンスらは、テりーの家におしかけた。しかしテリーはすでに引っ越していた。そして現在その家の住人であるシャロン・テートほか数名を殺害した。アトキンスたちは、自分が殺害した人間が誰であるかも知らなかった。シャロンはポランスキーの子供を身ごもっていた。夫のポランスキーは不在のため無事だった。

(シャロン・テート)
これは余談だが事件の一週間後、伝説的なウッドストック・ロックフェスティバルが開催されている。あそこで繰り広げられるヒッピー文化の幻想、そして現実の行き詰まり感、それをこの事件はタイムリーに示唆しているではないか。

ポランスキーとシャロン・テートが出会うきっかけとなった映画「ポランスキーの吸血鬼(1967)」はDVDで持っている。ごちゃごちゃしたコメディ・ムービーにもかかわらず、サラ役のシャロン・テートはその美しさで一本飛び抜けている。薄幸を予感させるものなど何もない。わずか2年後の悲劇なんてここからは想像もできない。

なお、これは余談だけど「ポランスキーの吸血鬼(1967)」の次作となった「ローズマリーの赤ちゃん(1968)」は、解釈のしようによっては事件を予言しているかのような不気味な作品だった。そしてこの不気味な映画のロケ地として使われたのが当時すでに築90年だったニューヨークのアパート....ジュディ・ガーランドやレオナルド・バーンスタインも住んだことのある 「ダコタハウス」だった。12年後、この建物の入口で射殺されたのが、当時の居住者だったジョン・レノンだ。

なお、ジョンは先述した「ホワイト・アルバム」で「ディア・プルーデンス」という曲を書いている。この曲はプルーデンス・ファロウという女優に捧げられているが、彼女の姉のミア・ファロウこそが「ローズマリーの赤ちゃん」の主役を演じていたのだった。

ビートルズ、ビーチボーイズ、バーズ、フー....1960年代のロックというカルチャーと大きくオーバーラップしながら(あるいは黒い翼の影を投影しながら)、この一連の出来事は不思議な連環をしている。
そう言えばマリリン・マンソンはチャールズ・マンソンから名前をとったんだっけな....もう何が何だかである。

まあいい。
賞賛されるような芸術家であること自体が、罪を購うに値するのだろうか?
30年前の罪が、いまだに罰するに値するのだろうか?
彼自身の人生....アウシュビッツで母を殺され、ヒッピーに妻を惨殺された....は彼の犯した罪にどう影響しているのだろうか?

それはこれから明らかになってゆくのだろう。

2003年になって、ポランスキー監督が罪を犯した13歳の少女が、「戦場のピアニスト」でアカデミー賞にノミネートされていた監督への思いをインタビューでこのように語っている。
「私は彼を恨んではいませんが、同情もしていません。ただ、アカデミーには、作品の質だけを考慮して監督の才能と映画を評価して欲しいと思っています。私も、あの事件も、評価とはまったく関係ないことです」。

上大岡的音楽生活