日本人による最古の録音
「事故前に書いていた原稿ですが、更新が少ない間の穴埋めにどうぞ。いささか堅いですが….(むね=Spiduction66=シモヤマニア)」
2003年10月17日の朝日新聞は「100年前の日本人の声録音パリでロウ管14本発見」と報じている。
1900年のパリ万国博覧会の際、パリの人類学協会が、世界中から訪れた人々の声を録音した蝋管の中に、日本人の肉声があったというものだ。
「明治33(1900年)年7月20日から8月31日にかけて。17歳から55歳の、芸者や貿易商らが聖書や舞台のせりふを読み上げている」と記事にはある。
この蝋管を発見した日本女子大教授(日本語学)の清水康行教授によれば、7月の録音台帳に「hitomi」と記録されている人物は、人見一太郎(明治・大正期の評論家・新聞記者・実業家)に間違いなく、聖書を朗読した彼の録音こそが、現存する日本人最古の録音なのだそうだ。
一連の録音の中で興味深いのは芸者一行を引き連れて、パリ万博のアトラクションに出演していた新橋・烏森の料亭「扇芳亭」のおかみの「岩間くに」と思われる女性と男性の会話。
お玉さんとおえんさん(おそらく抱えの芸者であろう)が博覧会見物に行った時のエピソードを面白おかしく語っている。二人は普段着慣れない「洋服」でパリっ子気分で練り歩いたが、足に豆ができてしまって大変な目にあったようだ。
「やりつけない洋服で行ったってもんでさ。そうしるとね、足ィ豆ェこしらいちまったん。あんまりやりつけないことやってねぇ、こうえばって歩いたりなんかしたんでさぁ。」
清水教授は「現代の東京ことばとの共通点の多さに、むしろ驚かされる」としているが、それは言語学教授の弁。
僕はむしろ泉鏡花あたりの小説から浮かびあがってきたような、ほとんど耳にすることのなくなった明治の言葉に感動した。
この音声の一部は、GICAS(アジア書字コーパスに基づく文字情報学拠点)というサイトで聞くことができる。
http://www.gicas.jp/project/phonarc/index.html
から入ってページ最下部の「パリ録音(1900)の見本」をクリックのこと。
さて、録音時期は正確に特定できないものの、これとまったく同時期にもうひとつの日本人による録音が行われている。しかも場所は同じ万国博で沸くパリだった。
もうひとつの録音は、欧米巡業中の川上音二郎一座がパリで録音したもの。時期は一座のパリ滞在時期に照らして、7月もしくは8月と言われている。
当時、欧米における川上一座の人気は凄いものだった。イギリスではバッキンガム宮殿で御前公演も行っている。音二郎の妻である貞奴は、「マダム貞奴」という愛称で親しまれ、このような絵画にも多数描かれていた。
この録音はヨーロッパでの彼らの人気に便乗した英グラモフォン社によって録音されている。近年英EMIのアーカイヴに29枚のSP盤があることが日本文学研究者のスコット・ミラーによって確認され、1997年に東芝EMIよりCD化された。1997年12月16日付の朝日新聞は、この発見を「日本人最古の録音復刻」として、トップ記事として扱っている。
ただ、残念なことに音二郎、貞奴本人の録音はない。
各演目はこのような前口上ではじまる。
エー明治33年の6月27日でございましたが、イギリスのロンドンで、バッキンガムの王宮でございまするが、エー同皇太子殿下ウエルス親王殿下の照覧をかたじけのうしました、欧米漫遊中の川上一行でございまする。エー川上音二郎がその折りに「備後三郎」をお目にかけましたが、その声色をちょっと申し上げまする。私は一行中の藤川岩之助でございます。(「勤皇美談 備後三郎 院の庄の場」より前口上 藤川岩之助)
「ジャポニズム」こそ下火になりつつあったものの、当時のパリではまだまだ遠く離れた神秘の国に対する憧憬があった。そうした中で録音されたこの一連の音源は、皮肉にも19世紀末の日本人の話言葉を知ることのできる数少ない資料となったのである。
ディスカッション
コメント一覧
初めまして。当方は映像制作に携わる者です。仕事のプレゼン用に貞奴の資料を集めていて、偶然貴兄のサイトを発見、大変興味深く拝見致しました。
さて、実は教えていただきたいことがあるのですが、文中で使われていた2点の写真のうち、貞奴(?)らしき女性の後ろ姿が描かれた絵画は誰の作品でしょうか?教えて頂ければ幸いです。
宜しくお願い致します。
PS・実は当方も昨年自転車で事故にあって顔に4カ所チタニウムが埋め込まれております。
Rupert Charles Wulsten Bunnyというオーストラリア人の画家による作品で「Madame Sadayakko as Kesa」です。彼は人生の大半をフランスで過ごしているようですが、おそらくその時期に描かれた作品かと思います。どういった経緯でこの絵が描かれたのかはわかりません。
残念ながら貞奴と音二郎の録音はありませんが、上記録音は「甦るオッペケペー 1900年パリ万博の川上一座」というタイトルで当時発売されていました。当時の規格番号はTOCG-5432です。上記で紹介した朝日新聞記事は、発売日の前日のものです。
当時ですら「採算を度外視(朝日新聞記事より)」しての発売だったので、現在は廃盤と思われるため特に紹介はしなかったのですが、ここで聴かれる「オッペケペー」は、現在ドラマなどで再現されるものとは節回しが違う点、現存する最古の「Japanese Hip-Hop」である点で貴重です。
P.S.僕の顔面に入っていたのはおそらくチタニウムなのですね。教わりました。
貞奴のことよりも、僕は自分のことを知らなきゃいけませんね。
一ヶ月も間のあいたコメントになりますが、『甦るオッペケペー』(「蘇る」ではありません、念のため)は、まだ現役の市販商品で、入手可能です。
同CDには、おっしゃるとおり、貞奴自身の録音は含まれていませんが、以下のCDで、別の機会(録音時期不詳)に録音した彼女の声(1曲のみ)が聴けます。
『小沢昭一が選んだ 恋し懐かしはやり唄(二)』(コロムビアミュージックエンタテインメント – ASIN: B00005EOGQ)
上の元企画にあたる以下のCD(元々はLP時代の編集)には、更に別の録音も収められています(ただし、こちらは8枚組で少々お高め)。貞奴の録音は2点のみ(うち1点は上盤と同じ)。なお、上盤にも本盤にも、川上音二郎一座による演奏(各1点、同じもの)も収められています。
『恋し懐かしはやり唄』(コロムビアミュージックエンタテインメント – ASIN: B00005EO4M)
音二郎・貞奴一行は、1901年にも欧州興行をしており、同年11月にベルリンを訪れた折に、同地で録音を残しており、上のCDの一部は、それからの復刻です。
これら川上一座のベルリン録音は、以下のCDに、詳しい解説付きで復刻されていますが、ドイツの博物館が出したものなので、日本での入手は難しいかも知れません。
Wax Cylinder Recordings of Japanese Music (1901?1913)(BphA-WA1)
>Y.SHIMIZUさま
お名前を拝見し、一瞬で理解しました。
このような辺境blogにお越し頂き、大変恐縮しております。
僕が住んでいる横浜では、ほとんど「東京ことば(江戸っ子の言葉と理解しました)」を聞く機会もありません。むしろ鏡花などの活字によって知ることのできる言葉なのです。
そういう意味であのような文章を書きました。
失礼がありましたらお許し下さいませ。
さて、色々とご教示頂きありがとうございました。
(誤字は訂正しました!)
貞奴の「槍さび」でしたら耳にしたことがあるのですが、あのような経緯で録音されたということは知りませんでした。
幸いなことに、最近ハンブルグ帰りの知己を得たので、あの複雑怪奇なドイツ語を読んでもらって注文してみようと思います。
思うに世界にはまだまだ日本人の当時のしゃべり言葉や音楽をを伝える貴重な録音が眠っていると思います。
例の陸奥宗光の録音シリンダーなんていうのも、もしかしたらどこかに眠っているかもしれませんね。
多くの録音が「尋ねてくれたら、あったのに」という状態でどこかのアーカイヴに眠っている気がしてならなりません。
僕個人としては、日本にも(今のようなバラバラな状態ではなく)、統一的に貴重な音声や音楽録音を保存するアーカイヴがあってもいいのではないかと思っています。
そうした意味でもSHIMIZUさまの今後のご活躍をお祈りしております。
P.S.それにしても辺境のblogにもかかわらず、この記事にだけは、hiro77さんといい、Y.SHIMIZUさんといい、予想もつかない方からのコメントがあり、その度に恐縮しております。
ばればれのハンドル・ネームで申し訳ありません。
私こそ、わざわざ私共の仕事を取り上げていただき、励ましのお言葉まで頂戴し、恐れ入ります。
音響アーカイブと呼べるものを設置し、貴重な音源の保存と公開の途を開いていくのが、私にとっての責務かなと思いつつあります(欧米の関連施設を訪ねる度に、そのお蔵の深さと、管理運営上の困難さとに溜息をつくばかり、というのが現状ではありますが)。
10月末・関西と11月頭・東京とで、1900年パリ録音を中心とした古い録音資料に関わる公開イベントを企んでおります。概要が固まりましたら、貴ブログに押しかけ、宣伝させていただこうかと存じます。
貞奴「槍さび」は、1901年ベルリンでの録音ではないようで、おそらく、もう少し後での国内での録音かと思われます。
1901年ベルリン録音の復刻CD中には、彼女が琴に合わせて歌う「鶴亀」が収められています。他に琴演奏「袈裟」も収録されており、こちらは貞奴の演奏かどうか定かでありません。
「下山事件資料館」おいおい勉強させていただきます。
(私も、キャンディーズではミキ派でした。)
>S.SHIMIZUさま
イベントの宣伝はぜひお願い致します。その時期に丁度仕事の方でもイベントがあると思われるので微妙ではありますが、できれば参加させて頂きたいと思っています。
アーカイヴの件、まったくおっしゃる通りです。
本来SHIMIZUさまも言語学とか文学という学術研究の一環として録音に触れられていったのだと思いますが、日本の現状と海外での保存活動のギャップに接するウチに「音響アーカイブ」というお考えに至ったのではないかと拝察致します。
現状では下手するとコレクターのプレイヤーの上で磨耗しつつあるだけで、デジタル化しての保存や、湿度や温度管理された状態での原盤保存にはほど遠いような状態ではないかと思います。こうして梅雨と夏が過ぎるたびに、聞けなくなってしまう蝋管やSP盤がいくつあることやら...
いっぽうでJasracがデジタル化作業ですら「お金払え」と来るかもしれません。レコード会社の戦前の「月報」のデジタル化やデータベース化もまだまだなようです。
本当にSHIMIZUさまのご活躍を願ってやみません。
さて、僕はSHIMIZUさまのような学術的な研究とはおよそ縁のないところにおりますが、20年前にNHKで放映されたある番組を見て以来、こうした録音史に興味を持ちました。
それは80年前にアイヌ人の肉声を録音した蝋管が発見されたというものでした。当時の技術で音声を復元し、あるアイヌ人の老婆にそれを聞かせたところ、突然彼女が泣き出したのです。
そこに録音されていた声は、その老婆の今は亡き肉親だったのです。思いもかけぬ形で自分の肉親の80年前の「声」と再会を果たした彼女の驚きがブラウン管の向こうからヒシヒシと伝わってきました。
それまでは音楽を伝える手段程度にしか思っていなかった「録音」というものの価値観が180度ひっくり返った瞬間でした。
次回は「日本における最古の録音」も書いてみようと思っています。東大での最初の公開実験や、ガイスバーグ録音、それと今回書き足りなかった陸奥宗光録音についても書こうと思っております。
当初は生徒さん向けの小ネタ集のつもりだったのですが、皆さまの反応を見ていると、どうも違う方向に向かっているようですね(笑)。まあいいか。
UP後に何か御教示頂ければ幸いですm(._.*)mペコッ。
あと、「槍さび」のご指摘ありがとうございました。調べてみたらどうも大正初期の録音のようです。ますますドイツCD欲しくなりました。
P.S.キャンディーズのミキ派は音楽性重視だから、OKなんです!
「NHKで放映されたある番組」とは、NHK特集「ユーカラ沈黙の80年:樺太アイヌ蝋管秘話」(1984年6月26日放送)のことですね。あの番組は、NHKの中でも、屈指の名作として語り草となっているそうです。ご指摘の、甦った肉親の声に涙する姿は、私にも鮮烈な印象を残しています。
(同番組は、「NHK特集名作100選」中の1本としてビデオ化〈NHKエンタープライズ、00364VA〉されています。)
このロウ管再生プロジェクトに参加していた伊福部達氏(当時・北大、現・東大教授)を中心とするグループが新たな携帯式(ちと重いかも?)ロウ管再生装置を試作中で、秋のイベントで公開の予定です。乞う御期待。
「日本における最古の録音」、UPされるのを楽しみにしております。
情報ありがとうございました。
ビデオで発売されていたのですね。
局内で「屈指の名作として語り草となっている」
ことがうなづけます。
21年も前に見たにもかかわらず、
今でも鮮烈な印象が残っています。
また、僕の興味の範囲を広げてくれた作品
でもあります。
横浜には放送文化ライブラリーもありますし、
愛宕山か埼玉でも見れるかもしれません。
「下山事件」の関係で、
いずれ調べものをしにゆくので、
その際に見てみようと思います。
携帯式のロウ管再生装置も楽しみにしております。
イベントのお知らせ、よろしくお願い致します。