春の社会科見学 -東京湾要塞第三海堡遺構見学ツアー - ①遺構見学編

2006年の国会議事堂参議院見学、そして2009年の首都圏外郭放水路見学に続く「ミューポ社会科見学」をああでもないこうでもないと思案していた。長崎の軍艦島見学ツアーも悪くないと思っていたけど。本年は日程を決めるのが難しそうだと思っていた。

そんな中、1月2日付日本経済新聞「東京湾水没要塞が90年ぶりに公開」という記事が目に入った。関東大震災で水没した幻の海上要塞「第三海堡」の遺構を予約制で公開しているのだという。

「これだ!」と脳内に雷が落ちた。
しかもその展示場所は横須賀の追浜だ。
「近っ!」とも思った。

早速、新聞に案内されていた「NPO法人アクションおっぱま」の昌子さんに連絡をとった。
ボーカル教室が第三海堡を見学という時点で何だかおかしいわけだけど、昌子さんは快く承諾して下さった。

メンバーはひろさん、カカ王さん、おーさん、ココちゃん、K君、ル・シェルボーカル教室(横須賀)の原オーナー、元上司M君、そして僕の8名。イサオ君も参加予定だったが、前日になって急遽会議が入ってしまい、午後の猿島からの合流となってしまった。10代から40代までのすべての世代が集まった。

まずは本日説明していただくNPO法人「アクションおっぱま」の昌子(しょうじ)さんと横須賀リサイクルプラザ「アイクル」の駐車場で待ち合わせ。昌子さんは大学の教授という仕事のかたわら、追浜の町おこしに関わる様々なことを活動されている。この方の熱意がなければ第三海堡がこの街に来ることはなかった。

挨拶の後、道路お向かいにある展示施設へ。

ファンスごしに第三海堡の遺構「観測所」が見えるだけで、テンションが高まってくる。90年という時間を越えた歴史の重みが、急激にのしかかってきた。

まずはパネル展示や模型展示で第三海堡の建造の歴史や移設の経緯についてお話を伺う。

かつて東京湾の千葉県富津岬と横須賀の観音崎とを扇状に結ぶラインに人口島からなる3つの海上要塞があった。

大きな地図で見る
(地図右から富津岬、第一海堡、第二海堡、猿島。第三海堡は第二と猿島を結ぶ中間点から南東1kmぐらいの地点にあった。)

まだ艦船による戦争が主流だった明治時代、東京を防衛するために、陸軍省が東京湾を要塞化することを計画した。順次24の砲台が東京湾に構築された。これがいわゆる東京湾要塞だ。

そんな東京湾要塞の中でも重要拠点となるはずだったのが3つの人口島だった。これらはそれぞれ第一海堡(かいほ)【明治23年竣工】、第二海堡【大正3年竣工】、そして第三海堡【大正10年竣工】と呼ばれた。

(第三海堡展示室 -通常は未公開-)

水深1m~4mという浅瀬に作られた第一海堡は9年で竣工したが、水深40m、潮流秒速20mという観音崎沖合いに建造された第三海堡は世紀の難工事となった。明治25(1892)年に着工されて以来、海水の浸入を防ぐため構築した堤防は相次いで決壊した。当初明治45年とされていた竣工予定は、10年もずれこんで大正10(1921)年となった。着工から竣工まで30年を要した土木工事というのは聞いたことがない。難工事と言われた丹那トンネルは16年、青函トンネルですら22年で竣工している。

(第三海堡を引き上げる際に強度調査のために抜き取ったコンクリート塊)

こちらのサイトに第三海堡のCG復元図がある。これを見て思うのはそのデザインの洗練された美しさ。狭隘な面積を軍事施設として機能的に活用するという理由だけで、これほどまで美しくなるものだろうか?そんなことを思った。

ところが竣工からわずか2年後の大正12(1923)年、関東大震災が発生する。
第三海堡の被害は深刻だった、いわゆる液状化現象によって島全体が4.8mも水没してしまったのだ。水没直後の空中写真が上記サイトにある。
結局のところ第三海堡は放棄された。昌子さんの説明では「大砲の技術が進化して」、つまり大砲そのものの射程距離が伸びたため第三海堡は必要ではなくなったとのことだった。

その後、第三海堡の廃墟は暗礁となった。敵艦船への脅威ではなく東京湾に出入りするありとあらゆる船舶への脅威となってしまった。

(震災による水没後の第三海堡(模型))

そんな第三海堡の撤去工事がはじまったのは平成12年。そんな中でいくつかの構造物が海中から引き上げられた。
このうち大型兵舎が横須賀市平成町のうみかぜ公園に展示されている。

(第三海堡で使用されていた電話)

そして他の建物が紆余曲折を経て、ようやく現在の夏島都市緑地に移設保存されたのが昨年の8月31日のことだった。そして周辺を整備した上で本年1月末から予約制での公開となり、それに反応したのが我々だったというわけだ。

さて、いよいよ遺構の見学だ。

(第三海堡 観測所)
最初に見たのは「観測所」と呼ばれる建物。頂いた説明書によれば、指揮官がここに位置して、敵艦の観測や指揮を行っていた建物らしい。

(観測所側面)

この窓は砲弾の出し入れに使ったものなんだだそうだ。海中にあった際は魚が出入りしていたに違いない。第三海堡全体にも言えることだけど、軍事施設にもかかわらず細かい部分に洒落たデザインを取り入れている。この窓もそうだと思う。直線と曲線をとりいれたデザインは何だかアールデコっぽい。そのことを昌子さんに尋ねたら「そうそう、もしかしたらそうかもしれませんよ」。

弾薬庫の扉を支えていたちょうつがいが腐食せずに残っていた。

次に見学したのは「探照灯施設」。

(探照灯施設)
夜間にサーチライトを照らして敵艦を探知した建物だ。規模は最も大きい。建物に入っている亀裂はおそらく震災で地盤が変動した時のものだろう。

屋根に避雷針が残っているのが教会の十字架のようだった。


(内部は二階構造になっいて、上った場所からサーチライトを操作したようだ)

最後は砲台砲側庫。

(砲台砲側庫)
文字通り大砲の弾薬庫だ。

内部はこのような部屋が二つある。壁が途轍もなく厚い構造になっているのは、敵の砲撃から弾薬庫を守るためなのだろう。

「ああ、これは現在のシロモノじゃないな」という一見あたりまえの感覚が妙にリアリティをもってずっと頭の中を駆け巡っていた。
我々は歴史的な建物に見るためにしばしば足を運ぶ。そういう建物はずっと昔からそこにあって、土地と一体化しながら歴史を重ねている。そういう時には見るほうも心の準備ができているから、そういうことをあまり考えない。
だけどこの第三海堡遺構はどうだろう?90年前にこの世から一瞬で姿を消し、突然タイムスリップしたかのように現代に現れた。
関東大震災で被災したコンクリート建築が、被災した当時の状態で現代に現れる。
こんなことは人生の中で滅多にあるものじゃない。だからそんな事を感じてしまったのだろう。

「徒労」という言葉も頭に浮かんだ。
着工まで30年という時の流れは第三海堡を取り巻く世の中の状況を変えていたはずだ。
当初は清国艦隊やロシア艦隊の来襲を予想した海上要塞であったが、大正10年といえば日清日露両戦争どころか第一次世界大戦も終わっていた時代だ。この年まで日本はシベリアに出兵して散々な目に遭ってはいたものの、まだ新興国ソビエト連邦を脅威と考える時代ではなかったと思う。また同じ年にはワシントンで軍縮会議が開催されており、世界的には軍縮と平和を願う声が高まっていた。
そうした中で第三海堡の建設が推し進められた時代背景には、陸軍元帥であり当時の日本政界の実質的な最高権力者だった山県有朋の意向があったと考える。東京湾を要塞化することは、もともと山県が明治4年に構想したものだった。第三海堡の建設にあたっては陸軍技師の西田明則(昌子さんから頂いたパンフレットには1ページを割いて西田を紹介している)も、山県が抜擢した人物だった。
こうした個人の強い意志というものが時代の変化にかかわらず第三海堡を建造し続けた一番の理由だったのではないだろうか?昭和天皇のご成婚にも物言いをつけた人物である。第三海堡を建造を完遂させることなどわけなかったろう。

アメリカ政府も注目していた第三海堡建造の土木技術だったが、竣工翌年の大正11年に山県が亡くなったことで、状況が変化したのだと僕は考える。だからこそ翌大正12年に関東大震災で要塞が水没したことを機に、あっさりと陸軍が放棄してしまったのだろう。
先人たちの技術には一目おくのはもちろんのことだけど、時代の変化に対応せずに作り続けられること、それがあっさり覆されてしまうことに、今も変わらぬ「ハコモノ行政」的なものを感じずにはいられない。

———————————————————————————————————————————————————————
さて、ここからは昌子さんから頂いたシンポジウムのお知らせ。この記事を読んでくれた方で、第三海堡を見学したい方にはチャンスです。

「第三海堡移設記念シンポジウム」
シンポジウムの趣旨:東京湾第三海堡遺構の移設を機に、横須賀市追浜地区の歴史遺産を活かしたまちづくりを市民中心にという機運が起きています。これを進める上で、関係機関の連携などの課題について、パネルディスカッションを通して検討します。基調講演は、要塞や海堡に造詣の深い原 剛氏(軍事史学会副会長)にお願いします。

開催日時:2011年3月19日(土)13:00~15:30 終了後第三海堡遺構見学(見学の終了 16:30予定)      
会場:横須賀市リサイクルセンター「アイクル」講堂
参加予定人員:100名
参加費:無料
第一部 基調講演 原 剛氏(軍事史学会副会長)
「東京湾第三海堡建設の経緯」   
第二部 パネルディスカッション
「歴史遺産を活かした追浜のまちづくりを進めるには」
パネリスト:横須賀市市史編纂室 高村聡史氏
NPO法人安房文化遺産ネットワーク事務局長 池田恵美子氏
日本大学理工学部教授 伊東 孝氏(都市計画 土木史)    
司会:昌子住江(NPO法人アクションおっぱま
主催:追浜観光協会、追浜商盛会、NPO法人アクションおっぱま

参加したい!という方は「アクションおっぱま」に問い合わせしてみるとよいでしょう。

(次回は貝山地下壕をレポります)

2014.10.05追記:記事の日付を見て頂くとわかる通り。これは東日本大震災の2日前に書いたものでした。関東大震災の遺跡を見に行ったら本当に地震が発生したのには妙なものを感じたものです。
上記イベントは中止となり、震災の混乱の中で貝山地下壕のレポートだけは吹っ飛んでしまった次第です。

教室事件簿

Posted by spiduction66