“ぴあ”廃刊

コンビニに行ったら情報雑誌「ぴあ」の「最終号」が並んでいた。
この雑誌がついに廃刊になることは1ヶ月前ぐらいのニュースで知っていた。
その時は「来るべき時が来たんだなぁ~」という感慨程度だったのだけど、表紙に書かれた「最終号」という3文字に、なんだか急激な寂しさを感じて、思わず買ってしまった。

ちょうど31年前の熱い夏を思い出す。

当時の僕は中学校三年生だった。今の自分の娘と同じ年齢だ。置かれている状況は「高校受験の天王山」だった。

ある日、母が高校受験の夏期講習を申し込んできた。その「会場」は御茶ノ水駅から水道橋方面にずっと歩いたところにあった。なぜ「会場」と書いたかというと、僕の記憶では外堀に面した「東京デザイナーズ学院」のビルだったからだ。当時は受験生が山ほどいた時代だ。大手の塾も教室スペースが足りないから夏期講習だけ間借りしていたのだと思う。

その夏期講習がどの程度の期間だったのか、今となっては杳として思い出せない。というのも、マトモにこの講習に通っていなかったからだ。

その年の5月に横浜から千葉に引っ越した僕は、むしゃくしゃしていた。通勤の弁を考えての引越しだったと記憶しているが、僕にとっては余計な御世話だった。
10年間遊んできた友人と別れるのが辛かったし、千葉の市川という場所が嫌だった。今でこそ市川の南行徳と言えば浦安に隣接した首都圏のベットタウンだけど、1980年当時は田舎町だったからだ。

こんな思い出がある。
僕がいた横浜の中学校には校則がなく、生徒の自主管理に委ねられていた。
当時は「白バン」というのが流行っていた。制服のズボンに白いベルトをするのだ。
2年生や3年生になると、肩掛けのカバンなんてダサいので、Adidasなどのスポーツバッグで通学するようになる。それが当たり前だと思っていたから、市川の中学校でも同じような格好で通学していた。
ところがそんなある日、生活指導の先生というのが現れて注意された。
「おい宗澤、お前そのベルトの色、よくないな。何とかならないか?」
僕は驚いた。そんなこと横浜では言われたことなどなかったからだ。
「横浜ではみんなこのベルトでしたが」
「うーん、ここじゃあそれは不良のするベルトなんだよね~、あとカバンも普通のカバンはないのか?」
その時、ようやく横浜で通じる常識が、こちらでは特定の人間にしか通じないことに気づいた。
それでも「他にベルトはないし、カバンもない」という理由で、白のベルトで通い続けた。
その生活はある日、母親がダサい黒のベルトを買って来るまで続いた。
おそらく先生が母に直接注意したのだろうと、今でも思っている。
ただカバンだけは水色のAdidasのバッグを卒業まで通した。

市川ではゾンビ、黒ニャン、タンメン、テンペなんていう友達もできていた。
万引きした品物を僕に色々プレゼントしてくれるヤツもいた。
「それはダメでしょう」と言いながらも、喜んで頂戴する僕がいた。
その夏は何かが爆発しそうな衝動に駆られていた。

夏期講習での僕の席は後方の窓際だった。窓からは強い日差しが入ってくるので、いつも机の表面が熱いぐらいだった。だけど高台にあるその窓からは、密集した街並みを見下ろすことができた。
そんな中に、あるいは僕のいるビルからは最も至近距離だったように思う。薄汚い雑居ビルの高層階の窓に「ぴあ」とロゴマークが貼られたオフィスが見えた。

当時の僕は「ぴあ」という雑誌こそ買ったことはなかった。だけど、その名前ぐらいは知っていた。
「ああ、これがぴあの本社なんだ」と思った。
おそらくワンフロア程度のその事務所には窓に背を向けて何人かの人が書きものをしていた。

たったそれだけのことで、僕は「ぴあ」という雑誌を買ってみようと思った。

考えてみるといい。横浜の生意気な中学3年生が、日本橋まで地下鉄で20分という場所に引越した。市川の田舎具合に辟易する一方で、こうして毎日のように御茶ノ水に通っている。しかも親の目は届いているようで、届いていない。何かが爆発するには十分だった。

当時の「ぴあ」は150円だったと思う。
一冊買って電車の行きかえりに隅から隅まで読んでいった。
わかったのは「東京には安い映画館がある!」ということだった。青砥の名画座、池袋の文芸座、銀座の並木座などでは400円から600円ぐらいで、古い名画を2本立てで見れるというのは驚きだった。2本立てということは、冷房の効いた場所で4時間ぐらいは過ごせるということだ。お昼のお弁当代とジュース代を我慢すれば、何とかなりそうな値段だった。

ある日のことだ。いつものように御茶ノ水駅のホームに降りた僕は、発車ベルが鳴り響くホームで一瞬躊躇した後、再びオレンジ色の電車に飛び乗った。目的は池袋。
そう、「ぴあ」は僕に「池袋の文芸座でチャップリンの"独裁者"と"街の灯"を二本立てでやっているよ」と悪魔の囁きを吹き込んだのだ。

僕にとって「ぴあ」は「悪魔の書」そのものだった。
「銀座の並木座は松本清張月間だよ。今週は"ゼロの焦点"と"張り込み"の二本立て。来週は"目の壁"と"点と線"だ。どれも名作だから見ておいた方がいいよ」
「ええと青砥の名画座は君の家からなら自転車で行けないことはないよ。講習に行くふりして行っちゃえ、行っちゃえ!ちなみに今週はビリー・ワイルダーの"サンセット大通り"とルネ・クレールの"自由を我等に"だぁ!」
そんなことを散々吹き込まれた僕は、今日は東へ、明日は講習へ(さすがに良心が痛んだようだ)、明後日は西へと名画を見まくった。

そうして夏は過ぎ、ようやく秋口からは「これではいかん」と勉強らしい勉強を始めた。
しかし12月にはジョン・レノンが射殺されて「心ここにあらず」という状態となった。気持ちが持ち直したのは12月24日に追悼集会に行ってからだ。そんな風にして14~15歳の季節は過ぎていった。

それでも何とか念願の志望校に合格した。
お小遣いも増えたので、当時は隔週金曜だった「ぴあ」(1冊180円ぐらいだった)を買うことは、さほど苦ではなくなった。

また高校から青砥の名画座まで数駅というのも災いした。高校1年生(1981年)の頃は、毎回にようにぴあを買っていた。運良く千葉県でも有名な校則のない「自主規律と自主管理」の学校に進んでしまった。そのため、教室にいようといまいと、それは「自己責任」だったのだ。

そんな悪魔の雑誌「ぴあ」の「最終号」には歴代"ぴあ"の表紙がこのようにずらっと並んでいた。
及川正通というイラストレーターが1975年からずっと書き続けてきた表紙だ。毎回来日したミュージシャンや話題の公開映画が表紙となってきた。

これを見ていると1981年3月13日発売の「ブルース・ブラザーズ」の表紙からハッキリ記憶がある。おそらく高校受験の目処がついたので「さあ遊ぼう!」という気分で買ったのだろう。その次の号が今回の「最終号」でも表紙を飾っている「スティービー・ワンダー」だ。これが3月27日号。この表紙も強烈に印象に残っている。

そうやって順番にみてゆくと、なぜか1982年10月22日号の「イブ・モンタン」までは連続して記憶があるが、その後はあまり買わなくなっているようだ。その理由は簡単だ。レンタルレコード屋が高校の近くにできて、そちらにお金を使うようになったのと「Rockin’ On」を買うようになったからだろう。1984年には浪人生だったけど、さすがにヤバいと思ったのか一冊も買った記憶がない(見覚えのある表紙がない)。この時も御茶ノ水に通っていたのだけどなぁ。

かと言って大学生になったら「ぴあ」を買っているかというと、そうでもない。
そもそも、当時つきあっていた彼女と「ぴあ」を手繰りながら「どの映画行こうか」と相談しあった記憶がない。それはなぜか「カッコいいこと」ではなかった。ましてや「ぴあマップ」なんて持って東京の街を歩いているのは「ダサいこと」だった。そう、頭の中に東京の地図を描いてこそオトナだと思っていた(今では横浜から出ることが少なくなったので、かなりヤバい)。

そんな僕は事前に見る映画やイベントを決めていて「○○で○○をやっているけど、行かない?」と提案し、彼女は彼女でどこからともなく情報を仕入れてきて僕に提案してくれた。二人とも映画やイベントにはひょいひょい行く方だった。「ぴあ」を使わなくても様々な情報を入手する方法を会得していたのだ。巷にはこういう情報がいくらでも転がっている時代だった。ただ今のように端末で情報を持ち歩ける時代など想像もしなかった。

それと当時はバブルの絶頂期だったけど「ぴあマップ」で紹介されてそうな流行りの美味しいお店に行列を作るとか、おすすめの洒落たお店に行くという感覚が僕の脳内に欠落していたのも事実だ。また「ぴあ」の音楽情報も必要ではなかった。いくらバブルの時代でも誰かのコンサートへひょいひょい行くほどはお金はなかったし、そもそも60年代のロックなんかにハマっている人間には、新譜情報なんてさほど必要はなかったのだ。

僕がそんなスタンスでいようといまいと「ぴあ」の会社は急成長していった。「チケットぴあ」などのように幅広くビジネスに手を広げた。「ぴあマップ」だの「関西ぴあ」だのと、様々な出版物を手がけるようになり、もはや本来の情報誌を越えて情報のコンテンツそのものを販売する会社になっていた。ありとあらゆる情報を一手に引き受けた感のある「ぴあ」からは「素朴な情報発信誌」というよりは「情報操作誌」という印象が強くなっていた。そうした嫌悪感も読まなくなった理由だったかもしれない。いつの間に御茶ノ水の雑居ビルから、大きなビルに移転したのもこの頃だったのではないだろうか。

この頃になると僕にとった南行徳ほど便利な場所はなかったし、旧街道沿いの神輿屋さんでアルバイトしながら江戸前の風情にどっぷり浸るようになっていた。

それでも1990年当時、ありとあらゆる情報を一手に引き受け、絶対的で圧倒的な強さを感じていた「ぴあ」だった。それがネットメディアの普及によって、その後の20年で廃刊に至るとは想像すらできなかった。絶対的で圧倒的なものなどないということを感じている。これこそが世の常なのだろう。

そんな「最終号」には付録として創刊号の復刻版がついている。

1980年代の"ぴあ"には「はみだしぴあ」というコーナーがあった。各ページの端っこに読者からの一行投稿が掲載されていたのだ。これはいまのTwitterそのものだ。そんな「ぴあ」の廃刊が「紙媒体の終焉、WEB媒体の時代」とは決して思わない。
知恵を使えば紙媒体でも生き残る道はあるし、ローカライズに特化する手法で生き残っている紙媒体を僕は知っている。

P.S.いつも、コッソリこのblogを読んでくれている娘へ。
親父の真似をするのは自由だけど、親父は最終的に志望校に入学したんだぞ。
悪い真似は誰にでもできるけど、良い真似もできて初めて「真似」と言えるんだ。
きちんと目標を達成できる自信があるのなら、いくらでも悪い真似もおやりなさい。
ただ、この話はおばあちゃんにはナイショにしておいてね。