昭和14年のジャズ教則本「ジャズ音樂」

古本屋や中古CDショップに入るとロクなことがない。
お店のあちこちで何かが「キラッ☆」と光る。
そやつらはなぜか昭和風に「あたくし、貴方が買いに来られるのをお待ちしておりましたわ」と囁いてくる。

先日「」のライブで高円寺ガード下にある無力無善寺へ行った時の話だ。

高円寺のガード下には古書店が何軒かある。これも高円寺へ行く楽しみのひとつなのだけど、喉君とフラッと入った一件のお店の片隅で「キラッ☆」と光る本があった。

タイトルは「ジャズ音楽」。出版社はアルス。丁寧にケースから取り出してページをめくってみると、ジャズの教則本だ。

「ジャズピアノの奏法」という項目を見てみる
コードの基本から始まり、コード進行の理論も、ペンタトニック、ブルーノートの音階、左手のベース進行まで書かれている。

かなり本格的な内容だということが一目でわかった。

僕が直観的に思ったのは「これは昭和20年代ぐらいのものかなぁ?」ということだった。太平洋戦争後に本格的に進駐軍ジャズが流入してきた時代の代物だろうと思ったのだ。
ところが奥付を見て驚いた。

そこには「昭和14年10月20日発行」とあった。
「えっ、戦前の本!」と思わず呟いた。
「よくこの時期にこんな本が出せたな」とも思った。

ちょっと日本の戦前ジャズの歴史を知るために、2曲を聞き比べて欲しい。
昭和3(1928)年、堀内敬三が訳詞した「あほ空(私の青空=My Blue Heaven)」が二村定一の歌によってコロムビアとビクターの両社からリリースされて大ヒットした。
「ジャズ」という言葉を一気にメジャーシーンへ押し上げた画期的な作品だった。

(「あほ空」コロムビア盤。by 二村定一・天野喜久代。昭和3年3月19日録音)
演奏は慶應大学の学生たちによるレッド・ブリュー・クラブ・オーケストラ。裏でリズムをとってシンコペイトしているものの、お世辞にもスィングしているとまでは言えない。
アンサンブルに時折不協和音が交ざるのはご愛嬌だ。ジャズのアレンジとしてはまだまだ未成熟だ。

しかし、ここからわずか数年で日本のジャズは急成長する。
ミュージシャンの演奏力とサウンドは急激に成熟していった。このあたりの国産ジャズの音源はとてもスリリングだし、貪欲に海外のサウンドを吸収しようとする日本人の音楽に対する好奇心の高さには、心地よい眩暈すら感じる。

僕は昭和11(1936)年というのが戦前日本ジャズの円熟期ではなかったかと思う。この年は日本のジャズに名演や名曲が数多く生まれている。

(「スーちゃん」by 岸井明 昭和11年12月8日録音。演奏:PCLオーケストラ)
そりゃあ同時代のベニー・グッドマンほどの「キレ」はない。だけど極東のいち小国のジャズ・バンドがここまでプレイできたのならば、大したものだ。

こうして聞き比べてみると、世界でも有数の「音楽大国ニッポン」の若いミュージシャンたちは、わずか8年で貪欲にジャズを吸収し、それを消化させていったことがわかる。

ところが昭和12(1937)年7月7日に勃発した日中戦争は、急激にこうした状況を変化させていった。まず昭和13年に国家総動員法が成立する。国あげての戦時体制となった日本では、急激に軍歌が流れるようになっていった。この頃から軍歌や民謡をジャズにアレンジしたレコードが相次いでリリースされるようになる。ジャズ・ミュージシャンたちも時局に適合した音楽を演奏せざるを得なくなってきたのだ。

そして昭和14年にはジャズのダンスホールの殿堂と言われた赤坂溜池「フロリダ」が閉鎖。同年9月1日、第二次世界大戦が勃発....

こうやって考えると、昭和14年10月20日に発行された「ジャズ音楽」は実に「微妙な時期」に発行されたことがわかる。
僕の脳内には、この本が戦前日本ジャズの最終期に出版された教則本だという「勘」みたいなものがあった。

「あたくし、貴方が買いに来られるのをお待ちしておりましたわ」
「はい」

数分後、ラーメン屋でこの本をじっくり眺める僕と「喉」がいた。

まず、執筆陣の豪華さに驚いた。
●「サキソフォーンの奏法と練習曲」
服部良一:戦前は「蘇州夜曲」「一杯のコーヒーから」「湖畔の宿」などがヒット。戦後は「東京ブギウギ」「青い山脈」などで知られた昭和を代表する作曲家。
●「ジャズ・ピアノの奏法」
菊池滋弥:戦前日本を代表するジャズ・ピアニスト。上記2曲のセッションにも参加しているはずである。
●「ギターの奏法と練習曲」
古賀政男:「丘を越えて」「東京ラプソディ」「影を慕いて」「悲しい酒」などで知らせた昭和を代表する作曲家。
●「ハワイアン・ギターの奏法と練習曲」「ウクレレの奏法と練習曲」
灰田晴彦勝彦兄弟:弟勝彦は昭和を代表する歌手:独特のポップス感覚を戦中戦後を通して貫いた。「燦めく星座」「こりゃさの音頭」「森の小径」「野球小僧」「東京の屋根の下」などが有名。兄の晴彦は戦前・戦後を通してハワイアン・ミュージシャンとして活躍した。
●「流行歌の唄ひ方」
徳山璉:音大出身の声楽家であり、同時に流行歌手としても活躍した。「隣組」があまりにも有名。

●「ジャズの合唱」
中野忠晴:戦前期に活躍したジャズ・シンガー。ジャズ・コーラスを全面に出した「コロムビア・ナカノ・ボーイズ」名義や単独名義で多数のヒットを飛ばす。代表曲は「山の人気者」「山寺の和尚さん」
●「ダンス曲の種類と形式」
井田一郎:大正12年に日本初のジャズ・バンド「ラフィング・スターズ」結成以来、日本のジャズ創生期を支えたバンド・マスター。「日本ジャズの父」とも呼ばれる。日本ビクタージャズバンドのマスターとして昭和3年の二村定一「あほ空(ビクター盤)」を実質プロデュースして以来、主にビクターで数々の名演を残している。
●「ジャズの編成と編曲」
紙 恭輔:彼もまた日本のジャズの草分け的存在。上記慶応大学レッド・ブリュー・クラブの「あほ空(コロムビア盤)」ではサックスで参加している。この後「コロムビア・ジャズ・バンド」の中心人物として活躍するほか、映画音楽の作曲なども多数手がけた。
●「トーキーとレビュー音楽」
堀内敬三:その膨大な知識によって、初期日本ジャズに多大な影響を与えた音楽評論家(作詞・作曲家でもある)。「あほ空(私の青空=My Blue Heaven)」は彼がアメリカから持ち帰り、訳詞した作品である。

当時の日本のジャズ・シーン(「アメリカン・ポピュラー・ミュージック」というとらえ方でいいと思う)の大物たちが、レコード会社などの枠を超えて共同執筆しているのがわかる。

彼らはどのような気持ちでこの本を書いたのだろうか?
ますます混迷化する戦局の中、次第にジャズを表現する場は失われつつあった。
そんな中、今までの自分たちの経験や知識を後世に残そうと、一同に会した最後のセッション。
僕にはそんな風に思えてならなかった。

僕はこの本を社費で購入することにした。
我々は世界でも有数の音楽教育大国と言われる日本で今の仕事をしている。そんな日本の「戦前ジャズ」が理論的に充分成熟していたことを証明する貴重な教育書だと考えたのだ。

細かい本の内容まで説明する紙数は足りない。興味のある人は教室のロビーで読んでほしい。

ここでは徳山璉(たまき)が書いている「流行歌の唄ひ方」の冒頭の文を紹介しよう。

流行歌という名称はレコード会社が勝手につけたものであって、流行しようとしまいとそれには関係のないものである。
したがって、これという唄い方もない。
流行歌は大衆のものだ。だから大衆が先生であるし、また大衆に適合した唄い方をするのが一番賢い。
しかし、その漠然とした中にも経験によって唄い方の法則のようなものが、僕たちの仲間にある。

第1.歌の歌詞をはっきりすること。
第2.誰にでもわかるように唄うこと。
第3.メロディーのクライマックスを印象的に歌うこと。
第4.芸術を第2において、その曲の気分を最大限に出すこと。

以上なような条件で唄えばよいのであるが、これが中々難しい。
第一の歌詞をはっきりさせて唄うことは簡単なようであるが、すぐにはできない。
といってあまりはっきりしすぎると、品のない、きざっぽいものになる。
流行歌には品などはいらないと思ってはいけない。
僕の歌などは品はないと思われているが、僕の場合は、自覚せる下品(筆者注:自分で自覚のある下品という意味)だと、うぬぼれている。
現在の流行歌には艶麗(えんれい)極まりない美しい言葉が連ねたれている。
このすばらしい詩をメロディーと共に歌うのが歌手の使命だ。詩人の気持ちを生かし、作曲を生かしてこそ初めて、完全な流行歌といえる。

この部分を読んだ先生方は「これは凄い、今でもまったく通用する言葉だ」と驚いていた。

昭和16年12月8日、日本はついにアメリカと開戦する。
「ジャズ音楽」は敵国の音楽となった。
それでもミュージシャンたちは日本民謡などをジャズアレンジにして、何とか自分たちの表現スタイルを貫こうとした。

本当にこういう音楽は消え去ったのは、昭和18年1月のことだ。
情報局から「敵性音楽の追放」というお達しが下された時、戦前ジャズはその息の根を完全に止められた。
僕はこのことを6年前に「敵性音楽の追放」という記事にしたことがある。