大正百年 -古いアルバムから-

歴史の切れ端

Acoustic Style 2012が終了し、ホッとしながらもDVDの編集だ画像の整理だと動きはじめているウチに、肝心な記事を書き忘れていた。

実は7月30日は「大正百年記念日」だった。
明治天皇が亡くなったのが1912年の7月30日、その日のうちに大正に改元されて、ちょうど百年目だったわけだ。
「大正マニア」な僕は、昨年あたりから「何か面白いイベントやらないだろうか」と手ぐすね引いていたのだが、特に何もなく過ぎ去ってゆくようだ。
こういうことをお祭り騒ぎに持ってゆくのが上手い電通も博報堂もスルーしているということは、盛り上がりが見込めないと判断したのかもしれない。
それならそれで仕方がない。

では明治改元から百年目を迎えた「明治百年」の時(昭和43年10月23日)はどうたったんだろう?
実はこの時は国あげてのお祭り騒ぎとなり、様々なイベントが行われている
日本武道館では政府主催の明治百年記念式典が開催された。夜には東京銀座で「明治百年」記念大銀座祭が行われ、夜19時から行われた「光のパレード」には30万人の人々がつめかけたそうだ。

「サザエさん」では波平さんが「明治百年かぁ」と感慨深げにつぶやくシーンがあったし、グループ・サウンズのザ・スパイダースは、そのものズバリ「明治百年、すぱいだーず七年」というアルバムを10月25日にリリースしている。

「明治百年」はそれなりの経済効果があったわけだ。

当時の華やかさ比べると、その落差に驚かされるけど、僕は僕なりに「大正」を追体験してみよう。
ここ数年、相次いで父方と母方の祖母が亡くなったために、僕の手元に大量のアルバムが遺された。
そんな中から「大正」を感じさせる写真を何枚か紹介してみる。

【母方の祖母と大正な人たち -大正5年頃-】
曽祖父が転勤族だったために撮影場所は不明。右から2番目の小さい女の子が僕の祖母だ。当時は珍しかった洋服を着させられて得意気にすましている。祖母は明治43年生まれだったから、大正5年前後の撮影ではないかと思う。
祖母をこうして見ていると僕の母親の若い頃に瓜二つだし、僕の長女の面影もある。
なお一緒に写っている人たちは親族ではないと思う。少なくともここには曾祖母は写っていない。
祖母は右側にいる女性のことを「私のことをとてもかわいがってくれた人で、醤油屋にお嫁に行った」と言っていた。
これは祖母がオリジナル原版を業者に頼んでプリントしていたもの。原版は行方不明。
よっほどお気に入りの写真だったに違いない。

そんな祖母は、生前こんな話をしていた。
「毎日、服を着るとね。母から黒いリボンをつけてもらっていたのよ。それが嬉しくてねぇ。いま思うと明治天皇が崩御されたので、喪章をつけさせられていたのよね」。
ちょうど百年前の今頃の記憶なのだろう。



【関東大震災で倒壊した大学校舎と母方の祖父たち -大正12年-】

これはかなり貴重な写真かも。
母方の祖父と学友たちが関東大震災で倒壊した大学校舎の前で記念撮影をしている。1枚目の右から二人目(しゃがんでいる)、2枚目の後列左から二人目が祖父だと思う。
2枚の写真は紙質が全く異なっていて、一枚目は光沢紙、2枚目は安物のヘンな紙にプリントされているためだろうか、セピア化が著しい。
祖父はたまたま夏休みのため宮城県に帰省していて難を逃れたが、戻ってみたら帝都は廃墟と化していた。
現在の感覚ならば、こうした場所での記念写真...明らかに写真館のカメラマンを呼んで撮影しており、全員笑顔で写っている...というのは信じられないかもしれない。だけど「この廃墟から立ち上がり勉学に励もう」という大正人の青雲の志なのだろう。



【砂浜にて -大正10年代か?-】

大正という時代の若者は壮大なロマンティストだったのだと思う。
この印象的な二葉の写真では、絵画のような風景の中に祖父たちが写っている。
自分たちを一幅の絵画の中に置くことで自己陶酔を図ろうとする。そんな姿に大正人の途轍もないロマンティシズムを感じずにはいられない。


【下宿にて、父方の祖父(右) -大正15年頃-】
岡山出身の父方の祖父(岡山大空襲に遭遇した人)もまた、東京に上京して学生生活を送った人だった。下宿で友人と火鉢に当たりながらポーズをとっている。撮影は写真館のカメラマンと思われる。なぜこういう風景を撮影させたのかは不明だ。

【正装した祖父(右)-昭和3年?-】
学校を卒業後、祖父は通信社の記者として京都に勤務した。
親戚の家に下宿していたので衣食住には困らず「独身貴族を謳歌した典型的なモボで、蓄音機まで持っていた」というのは父の言。僕も独身生活を一番謳歌したのが京都時代だったから、血は争えない。
そんな祖父が珍しくタキシードで正装した写真がこれ。わざわざポケットに手を入れてポーズをとっている。
前後の写真から推定すると、昭和3年に京都で行われた昭和天皇即位御大典の際に取材にあたった時の写真かもしれない。

僕にとっての祖父は、いつも着物を着ている「好々爺」で、こういうスーツ姿など、ほとんど見たことはなかった。だから数年前にこうしたアルバムが出てきた時には、洒落たスーツでポーズを取りまくる祖父の姿に驚いたものだ。

明治という時代が国民一丸となって国家建設に取り組んだ時代で、利他的な行動に自己陶酔しながら国民共通のロマンを追い求めるような時代だったとするならば、大正という時代には全く異なった表情がある。
「大正デモクラシー」と呼ばれる自由闊達な空気の中で育ち、自我に目覚めた国民たちは思い思いのロマンを追い求めながら、そういう自分に自己陶酔していった。
そんな時代の空気を浴びたせいか、僕の祖父母は不思議なぐらい頭が柔らかい人たちだった。ヘタすると昭和戦前育ちの僕の両親の方がカタブツなんじゃないかと思ったものだ。こういう時代の人たちが昭和10年代になって国家に対する自己犠牲に陶酔するような時代に突入してゆくことが、いつも理解に苦しむところだ。

そんな大正という時代や昭和初期の「モボ・モガの時代」を生きた祖父に関して忘れられないエピソードがある。
僕が大学生の頃だったろうか、何かの機会に親戚で集まった時、僕と姉の間で寺山修司の話題になった。
それを聞いていた祖父が唐突に「あの人は、のぞきで捕まったようなおかしな人じゃったけど、天才じゃからああいう行動をしたんじゃろう」と言った。
僕の父ならば「単なる変人だ」と一刀両断しかねないところだ。
まさか祖父からそんな頭の柔らかいセリフが出てくるとは思わなかったので、ひっくり返るほど驚いたものだ。

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