大垣行きの夜行列車は西へ

1980年3月、中学2年から3年になる間の春休みのことだ。14歳だった僕は友人のH君と京都・奈良へ旅行に行くことになった。
前年夏の那須キャンプを除けば、これが初めて自力で行く旅。宿の予約も切符の手配も自分たちで準備した。

何しろお金はない。京阪神ミニ周遊券を買い込んだ僕とH君は時刻表を調べて、深夜に一本だけ東海道本線大垣行きの鈍行があることを知る。
これを横浜か大船あたりから乗車すればいい位で考えていたんだろう。ある日父に「お前、何に乗って京都へ行くんだ?」と尋ねられてそんな風に答えたところ「冗談じゃない。あれは東京駅で2時間ぐらい前からホームに並んでいなくちゃ乗れないよ」と言われた。
親父は通勤で東京駅を利用していたから東海道本線のホームに陣取る人たちを目の当たりにしてきたんだろう。

そして旅立ちの日の午後9時、僕とH君は東京駅東海道本線ホームにいた。
すでに5組ぐらいが簡易シートで陣取って列を作っていた。
通勤のサラリーマンたちは我々に視線を投げかけながら通り過ぎて行く。その視線が妙に痛かったりする。それが旅する者への憧れの視線だったらまだいい。僕には日常の世界から非日常の世界を垣間見ているような視線に思えた。H君とは交代でキヨスクに買い物へ行くのだけど、この時にハマったのが「冷凍みかん」。以後、冷凍みかんはしばしば僕の旅のお供となっているし、これを食べるとなぜかあの視線を思い出す。

そんな僕の脳内ではこの曲が流れていた。

(シャネルズ「ランナウェイ」)

(ささきいさお「銀河鉄道999」)

ラジカセもなければ美女もいなかったけど、ちょうどヒットしていたこれらの曲が、旅立ちのワクワク感を彩ってくれた。

2時間もホームに座り込んで、いい加減退屈してきた時に列車がホームに入ってきた。
初めての経験でも何をしなくちゃいけないかわかる。緊張感が高まる中ドアが開いた瞬間から物凄い生存競争….席の取り合いとなった。二人で突入するよりは一人が身軽な恰好で席を確保した方がいいだろうという話になって、僕がH君に荷物を預けて突入したんだと思う。「生きてゆくって大変だなぁ~」と思ったかどうかは記憶にないけど、生まれて初めてこういう壮絶な世界に巻き込まれた瞬間だった。

この日、大垣行きは23時何分に東京駅を出たのだろう?
1980年頃の時刻表ソースがWEBにないだろうかと調べてみたら「夜行列車資料館」さんがそのものズバリ「昭和55年春の夜行列車」の時刻表を紹介していた。その「東海道本線下り・東京-大阪」によれば、東京発大垣行き普通列車は列車番号が「347M」、22時46分が入線時刻(列車がホームに入ってきてお客を乗せる時刻)23時28分が発車時刻で、大垣着は6時59分とあった。そうだ、言われてみると確かに席をおさえてから、それなりに時間(この場合42分)があったことを思い出す。

幸いなことに僕とH君はボックスシートの窓際を確保できた。網棚に荷物を片付けてようやく一息つくと、いよいよ本格的に旅が始まった感に襲われた。
22時28分、大垣行き夜行列車は東京駅を出発した。

車中、遅れて乗ってきたサラリーマンと小田原あたりまで相席だった記憶がある。
「小田原までだけど、ここいいかな」みたいなノリで座ってきたその人は、「へぇ、京都まで行くんだ。偉いね」という14歳の心をくすぐるような、今思えば「はじめてのおつかい」をほめられるような会話を交わした記憶がある。H君と雑談したり、手持無沙汰に窓際にあった灰皿をカランカランさわったり、生まれて初めて通りすぎる丹那トンネルにテンションが上がったり、うとうとしたかと思ったら強烈な田子の浦付近の悪臭に目がさめたり....そもそもあの列車の車内全体に漂っていたトイレのにおいは今でも忘れない。名古屋の手前あたりでは何となく空が明るくなってきているのだけど、あのあたりで並走する名鉄の電車...もちろん見慣れぬ色と形....を見て「異国」へ来たことを実感したり、そんな風にして14歳の少年たちを乗せた列車は西へと進んで行った。

寝たのか寝てないのかよくわからない状態で大垣駅に到着したのが6時59分。
よく言われる「大垣ダッシュ」というのは記憶にない。大垣駅で15分ぐらい待ってたら、のんびり西明石行きの鈍行列車がやってきたように記憶している。
関ヶ原 1979年
(関ヶ原付近で撮影。「関ヶ原古戦場」という看板が見える)

我々の最初の目的地は彦根。
実に渋い選択をしたもので、最初の観光地は彦根城と決めていたのだ。
途中、彦根市役所に「洗たくには粉石けんを使いましょう」という横断幕があるのに気付いた。当時、琵琶湖の水質浄化のため、粉石けんを使おうという運動が全国的にも話題になっていた時で、ちょうどタイムリーだとH君に撮ってもらったのがこの写真だ。
彦根市役所前 1979年
これがこの旅行で数少ない自分が写っている写真となった。そう、貧乏中学生にはフィルムに費やすお金などほとんど無かったのだ。

この後我々は安土城に登り、京都からわざわざ国鉄経由(フリーきっぷ縛りのせい)で奈良へ出て、薬師寺、唐招提寺、東大寺を見て回るという信じられないような強行軍を行っている。

当時、中学生が泊まれる宿といえば公共宿舎と相場が決まっていた。いや、別に決まっていたわけではなくて他にもリーズナブルな宿はあったのかもしれないけど、いかんせん14歳の脳みそでは「農林年金会館」「簡易保険宿舎」「厚生年金宿舎」などと言った宿に泊まっておけば安全で、裏口から宿主に連れ去られてサーカスに売られてしまうようなことはあるまい程度に思っていたのだろう。

この日の泊まりは厚生年金宿舎「飛火野荘(現在はホテルウェルネス飛鳥路)」。「公共宿舎ガイドブック」に「飛火野荘」は昭和初期に建てられた志賀直哉の旧居を利用していると書いてあったので、それなりに期待して行ったら、そこには宿はなくて本当に「志賀直哉旧居」があるばかり(※1)。これには茫然とした。

ガイドブックの内容は古かった。「飛火野荘」は新築のホテルに生まれ変わって300mほど西側に移転していたわけだ。
夜行列車と強行軍の果てに重い荷物を持っての歩きは辛かったし、歴史的な建物に泊まれないというガッカリ感がそれに拍車をかけていた。新築の宿で嬉しいという感覚を持っていなかったわけだから、あの頃には僕という人間はある程度できあがっていたんだろう。

こんな風にして人生最初の「旅」は始まった。
その後も京都と奈良へは何度となく通った。大垣行きの夜行列車にも4~5回ほどお世話になった。
だけどバブル経済の絶頂期になると貧乏学生も新幹線や夜行バスを利用するようになっていった。京都と奈良の体感距離はどんどん短くなり、異国に来たような感覚も薄れていった。

大人になってそこ(名古屋、京都、大阪)に住むことになるなんて想像だにしなかった頃の話だ。

※1:どうもこういうことらしい。「飛火野荘」としては志賀直哉旧居を建て替えて新しい宿泊施設を作る予定だったが、市民の反対にあったところで奈良学園(奈良文化女子短期大学)が既存の建物と土地を買収した。飛火野荘は移転新築となり、志賀直哉旧居は大学のセミナーハウスとして1978年11月から一部公開となった。我々が呆然としたのはその4か月後のことだった。