エクストリーム集中治療室

以前に比べたら、まるでホテルのような優雅な病院だった。
ただし手術直後の集中治療室だけは別物。あんなエクストリームな病室をいまだかって体験したことがない。

1月12日の14時30分過ぎ、扁桃腺切除の手術を受けた僕は、いまだ麻酔が覚めやらぬ中を集中治療室へと移動させられた。
そこは正確にはHCU(準集中治療室)とかいうやつで「手術直後の患者を受け入れる治療設備(デジタル大辞泉)」だったらしい。

ぼんやりと意識が戻ってきたのが15時ぐらいだった。
「いま何時ですか?」「15時です」と看護婦さん(※)と会話したのを覚えている。この時の僕といえば、腕には点滴、口には酸素マスクを装着され、両足には「エコノミー症候群」に対応するために脚をまるごとエアマッサージする装置が取り付けられていた。そのどれもこれもが気に食わなかったことは言うまでもない。

でも、一番気に食わなかったのは隣のベッドにいる爺さんだった。カーテンで仕切られているから最後までご尊顔を拝することはできなかったけど、とにかく地声が大きい….むやみやたらと大きいのだ。それが看護師さんと喋っている。大変丁寧なもの言いをする人ではあったけど慇懃無礼な印象を受けた。

手負いの猫は攻撃的だ。ちょっと近寄っただけでも「はーっ」と恫喝してくる。手術直後の僕がまさにそれだった。自分でもそれに気づいているし、それをおかしいと思うのだけど、その「ちょっとしたこと」が気になってならない。僕にとってはその「ちょっとしたこと」が爺さんの大声だった。

一般病棟からiPodとヘッドホンを無理してでも持って来なかったことを本気で後悔していた。
実は手術前、一般病棟の看護師さんに「HCUへiPodを持ち込みたい」と頼んではみた。だけど「一切余計な物は持ち込めないんです」と却下されていたのだ。

「余計な物は持ち込めない」というタテマエはあるのだろうけど、実際はどうなんだろう?
まだ頭がぼんやりとしていたけど、とにかく爺さんがうるさくてたまらない。看護師さんに「隣の爺さんの声がうるさくて(僕にしては珍しく、ストレートにこう言った)眠れません。すいませんが私の(一般病棟にある)ベッドからiPodを取ってきてくれませんか?」と頼んだら、「ごめんなさい。患者さんの私物は触れないんですよ。ご家族の方に持ってきてもらうのは構いませんが」と言われた。断られたことは断られたけどiPodの持ち込みは「構わない」ということを意味していた。
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ご家族の方....「大した手術じゃないから、今日の手術は立ち会わなくていいよ」と家内に言ったことを、後悔していた。
そんな悲しそうな僕の顔を見て、看護婦さんが言った。
「このベッドには有線(放送)がつながっているんです。イヤホンをお貸ししますから、それを聞いてはいかがですか?」
「そいつはありがたい。貸して下さい」
こういう所がなんだかホテルっぽいなと思いつつ届いたイヤホンを両耳に装着する。看護婦さんがチャンネルリストを見せてくれた。それは6チャンネルぐらいあって、(病院的に)無難なチャンネルが選ばれていた。そんな中から「くつろぎイージリスニング」なるチャンネルを指定する。なんだか掴みどころのない音楽が流れてきた。だけど音が片耳からしか流れてこない。
「片方からしか流れてきませんが」と看護婦さんに言うと、「どうもそういうものみたいですよ」と言われた(後日気付いたけど、病院ベッドの有線端子はモノラルだった)。これでともかく音楽らしきものを手に入れた。

その音楽に耳を傾けていると背後に何か人間の話し声が聞こえる。ノイズ交じりのその声が何を言っているのかさっぱりわからないのだけど、僕にはそれが道路交通情報のように思えた。

実はこの病院は首都高速に隣接している。HCUの窓からは真正面に高速道路が見えるぐらいだ。たしかこの付近は道路交通情報が受信できる区間だったんじゃないかな?そんなことも思った。だからと言って有線放送に道路交通情報が混信するものなんだろうか?だって有線とラジオだろ?混信のしようがないじゃないか.そもそもこの音って本当に道路交通情報なんだろうか?なんてことをうつらうつら考えているうち、再び僕は眠りについてしまった。これが多分16時頃だった。

18時すぎ、看護婦さんに起こされた。仕事を終えた家内が見舞いにきてくれたのだ。
来なくていいよと言っていても、やはり来てくれると嬉しいものだ。そして「これでiPodが手に入る」という喜びがそれに続く。いやそっちが上回っていたかもしれない。ごめんなカミさん。家内は病室からiPodと文庫本を持ってきてくれた。
iPodには音楽だけではなく入院生活に備えて志ん生さんと先代金馬さんの落語をどっさり入れてきた。なんだか体にパワーがみなぎってきた。俄然生きる意欲が沸いてきた。
音楽と私の渡世日記
(生きる意欲の源)

さて、ここまで書いて自分で読み直してみる。なんだかとても些細なことが脳内でぐるぐるループしているような気になる。どうでもいいことが気になり、どうでもいいことにこだわっている。これが病院であり、これが手術直後の人間の感覚なのだと、あえて正当化したまま話を続けよう。

家内が帰った後、iPodを手に入れて急に強気になった僕は、改めて病室の「音」に耳を傾けてみた。どうやらこの病室には僕以外に二人の患者が寝ているようだ。一人は先ほどのじいさんだ。家族が来ているようで今もまた大声で会話している。この爺さんには「ラウドじい」と命名した。

そしてもう一人….僕の足側の方にもう一人の爺さんがいることに気付いた。
このおじいさんは元気がない。弱弱しい声で看護婦さんと何かしゃべっている。
よく聞くと、看護婦さんが飲ませようとする薬を拒んでいるのだ。
「〇〇さん、お薬飲んで下さいよ」
「いい、もういいんです。飲みたくありません」とか言っている。まるで死期を悟ったかのようなもの言いだ。僕はこの爺さんに「弱気じぃ」と命名した。

21時過ぎ、先代金馬師匠の「佃祭」を聞いていた僕は、突然爺さんの怒号に聴覚を中断された。
ヘッドホンを外して耳を傾けると「ラウドじい」が看護婦さんと言い争っているのだ。
よく聞くと爺さんは点滴を外そうとしており、それを止めようとする看護婦さんの争いになっているようだ。
驚いたのは「ラウドじい」の口調。先ほどまでの看護婦さんに対する丁重なしゃべりがまるで嘘のように横柄になっている。
「嫌なんだよこれ。早く外せ!」とか命令口調で言っている。そのあまりの変わりように驚いた。

その後も、たびたび「ラウドじい」の叫びに聴覚も眠りも中断されていった。
22時頃:「おい!はるえ!、はるえはおらんか!」と怒鳴り出す。
23時頃:変な寝相(あるいは酸素マスクをはずしてしまったか?)を直そうとした看護婦さんに「何をしやがる!」と怒鳴り出す。
0時頃:「おい!お前!どこ言った、呼んでいるのに返事せい!」と大声をあげた。
1時30分頃:唸り声のようないびきがすさまじい。
3時頃:何やら絶望的な「あーっ、あーっ」という叫び声をあげる。

「せん妄(もう)」という言葉があるらしい。
後で看護師をしている生徒さんに教えてもらった。

「病気や入院による環境の変化などで脳がうまく働かなくなり,興奮して,話す言葉やふるまいに一時的に混乱が見られる状態です。人の区別が付かなかったり,ないものが見えたり,ない音が聞こえたりすることがあります。また,ぼんやりしているかと思うと急に感情を高ぶらせることもあります」(「病院の言葉」を分かりやすくする提案

せん妄でも何でもいいけど、「お前」「はるえ」など様々な女性がいるようで実にうらやましい爺さんだ。こちとら昼間のうちに寝すぎたため(麻酔で寝ていたのも含む)、なかなか寝付けないところにこの大騒ぎだ。HCUの夜は金馬と志ん生の落語と「ラウドじい」の魂の叫びとがミクスチャーとなって更けていった。
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明け方4時ぐらいのこと。
今度は「弱気じぃ」に異変が発生した。突然「弱気じぃ」が演説を始めたのである。
「この病院は人権蹂躙ですよ。私はこの病院が許せません」。
「私を監禁しているんです。誰か助けて下さい。解放して下さい」
「人権蹂躙してるんです。個人情報を盗んでいるんです。こんなことが許されますか?」
「私をね、よってたかって実験しているんだ、ここは。ひどい話です」
延々とそれは続いた。もう眠気なんかぶっ飛んでしまった僕は、次に何が起きるのかをワクワクするしかなかった。

そして朝6時、看護婦さんが「弱気じぃ」に「〇〇さん、採血しますね」と言ったら、俄然「弱気じぃ」はそれを拒否した。
「いやだ!個人情報だ!」。

そうか、あれって個人情報だと言われれば確かに個人情報だよな的な納得感を漂わせながら「弱気じぃ」は「強気じぃ」に変貌した。
「お前なんかあっち行け」と言ったかと思うと、ここには書けないような酷いあだ名を看護婦に浴びせた。ところがこの看護婦さんは本当によくできた子だった。
彼女は「〇〇さん、私の事が嫌い?嫌われるのは寂しいけど、だったら他の人に採血お願いしようか?」と言った。
僕の心にある種の感動がじわんとこみあげてきた。ところが爺さんからは回答はないものだから看護婦さんは男性の看護師(あるいはお医者さんか?)を連れてきた。

「〇〇さんね~、検査だから採血に協力してもらわないといけないの。わかった?今から採血するよ」と言うと、たちまち「強行採血」に打って出た。

弱気じぃが叫んだ。「助けて~人殺し!」
病室
(病室の入り口があの世へと続く階段のようにみえた)

なんだろう、僕もあまりこの人たちの事を笑えないんだろうなぁ~と振り返って思う。おのれの音に対する異常な固執というか何と言うか….
手術の直後ってこともあるのだろうけど人間を異常に駆り立てる「何か」がICU(HCU)にはあるのだと思う。

7時頃、看護婦さんがやってきて申し訳なさそうに言った。
「本当に寝れなかったでしょう。ごめんなさい。こういうことは珍しいんですが。」
「いや、なかなか面白かったんで、それはそれでいいんです」看護婦さんがニコっと笑う。
そして引き続き言った。
「でも、もう沢山です。早く一般病棟に戻らせて下さい」

※世の中は「看護師」という表現に代わったわけですが、「女性の看護師」という表現はなんだか味気ないです。
だからここでは女性の看護師は「看護婦」、男性の看護師は「看護師」と表現しています。