最も新しき大大阪名所絵葉書(3 難波橋編)
旅先から絵葉書を書いて送るなんてこと、もう25年はしていない。携帯で旅先の画像を撮影し「いまここにいるよ」なんてメールを送るのはその風習の名残なんだけどね。
さて、相変わらず例の絵葉書の話。
昭和初期の絵葉書業界についてはぜんぜん詳しくない。だけど当時かなりの数の絵葉書業者が大阪地区でもしのぎを削っていたことは確かだし、毎年のように地域の名所を撮影しては、最新版の絵葉書セットを発売しまくっていたようだ。「戦前土木絵葉書ライブラリー(土木学会運営)」などでアーカイヴされている膨大な絵葉書、そこには大阪のものが圧倒的に多い。
前回、そして前々回と、僕は我が家で所蔵してきた絵葉書を四枚紹介した。当時の絵葉書は地場の観光名所を紹介するというのとは違っていたようだ。むしろその地域の経済力を誇示しているようなところがある。当時珍しかった「地下鉄」はともかくとして「市役所」や「府庁」なんていう地域の経済力のバロメーターとなるような建物(しかも観光名所とはいえない)を、何のテラいもなく堂々と紹介している。
そうした絵葉書を見ていても、その地域に住む人たちの姿、暮らしなんかをうかがい知ることは難しいのだけど、「大大阪名所絵葉書」の中に唯一枚、そうした痕跡をはっきりと残しているものがあった。
これから紹介する「難波橋」の絵葉書がそれだ。
5:壮麗第一の石造橋難波橋
難波橋(なにわばし)は1915(大正4)年竣工の橋。大阪金融の中心地北浜から堺筋で土佐堀川と堂島川を越え、西天満へとつながる橋だ。欄干にはライオンの像があることから「ライオン橋」とも呼ばれている。橋の中央部に中之島が接していて、島へと続く道でT字型になっている。
この橋は現存している。僕の職場が西天満だったこともあり、しばしば仕事帰りなどにブラブラ利用させてもらった。東京でもお目にかかれないような重厚さと、過剰な位の装飾に飾られた橋で、そのインパクトは絶大だった。好き嫌いを越えたところでただただ驚嘆できる橋だった。
この絵葉書の画像は北の西天満から堂島川越しに北浜方面を撮影したもの。現在では阪神高速の高架と北浜出口が邪魔をして、このような写真は撮影できないと思う。
この絵葉書を、僕の持っているスキャナを使って最大解像度でスキャンしてみた。PCが悲鳴を上げそうなレベル(ほとんどポスターサイズ)まで引き伸ばされた画像の中に、絵葉書サイズでは確認できなかったさまざまな情報が隠れていた。それを今回は色々紹介してみようと思う。
ちょっと「ウォーリーをさがせ」や「ミッケ!」みたいだけど、ヒマな人はこの絵葉書の中から以下の人たちやモノをさがしてみて下さい。最大解像度でスキャンした画像から、色々と切り取ったため、対象物の大きさによっては、異常に大きい画像もあるけど、勘弁して下さい。
①夏服のサラリーマン
川辺の緑地でサラリーマンがリフレッシュしている。
白のスーツにカンカン帽というスタイルは、当時のホワイトカラーの典型的な夏服。一見くつろいでいるようにも見えるが、きっと頭の中は「買いや! いや、売りや!」とオシゴトのことでいっぱいに違いない。何しろ、ナニワ金融の中心地北浜は目と鼻の先なのだ。
②写生をする子どもたち
そのサラリーマンの前で3人の子どもたちが思い思いの姿勢で写生をしている。
「おい、じぶん、何描いとるん?」
「川、描いてるんや」
「アホか!橋ィ描かんかい!」
「こんな橋、むずかしうて、よ~描かんわ」
という会話をしているのだろう。
③川面を眺める女性とスーツ姿の男性
日傘をさした洋装の女性が川面を眺めている。スーツ姿の男性も川面を眺めている。泳ぐ魚を眺めているのか小舟を眺めているのかがわからない。いずれにせよ、ただでさえせせこましい大阪のことだ、現在の難波橋上にこんな余裕のある人たちはいないだろう。
④大阪株式取引所別館
1913(大正2)年に竣工した大阪株式取引所(現大阪証券取引所)別館。絵葉書では橋のたもとの「北浜ビルジング」の影にチラリと写っている。まもなくこの建物は本館とともに取り壊され、1935(昭和10)年4月に「大阪株式取引所市場館」へと建て替わる。
この「別館」が写っていることによって、この絵葉書の撮影時期がほぼ特定できた。前々回、地下鉄淀屋橋駅の絵葉書に触れた際、絵葉書の撮影時期が「1933(昭和8)年5月20日から1935(昭和10)年10月30日の間」と書いた。いっぽう、この絵葉書に登場する川辺でくつろぐサラリーマンや日傘の女性は、この絵葉書が夏に撮影されたものであることを物語っている。また、所蔵している7枚の絵葉書に写っている人物の多くが夏の装いをしているのが確認できる。
前述したように市場館の竣工は昭和10年4月。その建設期間から考えて1年にも満たぬ昭和9年の夏に上記画像の「別館」が残っていたとは考えにくい。
これらの絵葉書の撮影時期は「昭和8年の夏」でほぼ間違いないと考える。
●前述した「戦前土木絵葉書ライブラリー」には難波橋の絵葉書が多数ある。その中に市場館竣工後に同一角度から撮影された「難波橋」の絵葉書がある。
●「大阪の古建築(osakarchit.exblog.jp)」さんには、「大阪株式取引所市場館」の最近の画像がある。すっかりリフォームされて居心地が悪そうだ。
⑤子供の影
河畔で遊んでいる子供の影が堂島川の汀線とほぼ直角に交わっている。この影の長さや角度を引いたり足したり掛けたり割ったりしたら、この画像の撮影日や撮影時間を推定することも可能なんじゃないかな?興味のある方は挑戦してみて下さい。もし計算用に大きな画像ファイルが欲しい方は、こちらからどうぞ。
⑥ブランコで遊ぶ子どもたち
昭和8年のブランコは、ずいぶん危険。
まず、ブランコを吊り下げている支柱が4本足ではなく2本足。子ども2人が揺れる荷重にどこまで耐えられたか心配だ。また周囲に危険防止柵がない。ブランブランしている子どもに顔面強打の可能性が大だ。なお、右から二番目の男の子は、ブランコに乗っている女の子を押しているようにも見えるが、よく見ると鎖の残像が見える。「さあ行くで~!」というポジションにいるのだろう。
この子どもたちのうち、何人かはまだ生きているかもしれない。
⑦お坊さん?
炎天下、白い服を着ている人が多い中で、黒ずくめの異様な格好が目に付いた。
袈裟を着て笠をかぶった僧侶に見える。
いっぽうで子ども相手の「飴売り」に見えなくもない。
⑧人力車
思わず目を疑ったのがコレ。「明治時代ならばいざしらず、昭和の御世に人力車はないだろう」と思っていた。だけど、これは明らかに人力車(背後に自転車が写っているのでややこしい)。そこでインターネットであれこれ調べてみたら、文化放送の「サウンド オブ マイスター」というサイトにこういう記述があった。
「1935年(昭和10年)には、全国でおよそ2万台と、全盛期の10分の1にまで減ってしまいました」
この時代、人力車は辛うじて存続していたようだ。それにしても車夫の格好が明治時代と変わらないのが凄い。
⑨自転車
この絵葉書には確認できるだけで8台の自転車があった。
左の画像は、中之島方面からやってきて、橋の上でT字カーブをキメる2台。右の画像は橋の上を北浜方面に疾走する2台。今でいう「バイク便」的な役割があったのかもしれない。
⑩戻りの大八車
「それを言うたら、ワテは江戸時代からおりまっせ」とでも言いたげな大八車。
このオッチャン、北浜側のどこかに荷物を運んだ後のようで、気軽にカラ車を曳いている。
⑪行きの大八車
一方、コチラの大八車は、北浜方面に荷物の運搬中。
ところでこの荷物はいったい何だろう?俵には見えない....ケバケバしたタワシのお化けみたい、しかもかさばる割に軽そうななモノを沢山運搬している。
⑫大阪市電
スキャニングした画像はあまりにも大きすぎるので、この画像のみ半分にリサイズした。
乗降の扉が前後だけではなく真ん中にもあり、乗客用の窓が前後に6つずつある。我々が知っている「チンチン電車」に比べると随分大きな車体、かなり特徴のある電車だ。
この難波橋をわたるルートは現在は地下鉄堺筋線が走っているので、そのあたりをキーワードにして調べてみたところ、「市電1601型」という電車にあたった。
窓と扉の並び方、正面の面構えが大変似ており、ウィキによれば「戦前の大阪市電を代表する」車両だそうで、これに間違いないと思う。100両製造されたうちの大半は大阪空襲で被災し、のち一部が広島市電などに転用され、1台だけ大阪に現存していることがわかった。
「日本の旅・鉄道見聞録」さんのサイトに、現存車両を紹介するコーナーがあったのでリンクさせて頂く⇒「大阪市交通局1601形」
⑬自動車(あるいはゴーストップ事件)
この風景の中で確認できた自動車はこの3台だけだった。今の難波橋からは想像もできない交通量だ。
わずか3年前、1930(昭和5)年に日比谷交差点に日本初の信号機が設置されたぐらいだから、当時の交通事情というのは「たかが」知れていたのだろう。
だけどその「たかが」が、国家を揺るがすような事態になることもある。
昭和8年6月17日...というから、おそらくこの絵葉書が撮影される1~2ヶ月前。
場所は大阪の天神橋筋六丁目の交差点....というから、この橋から北へ1500mほど進んだ交差点。
その交差点で休暇中の陸軍上等兵が信号無視を行い、交通整理をしていた巡査がそれを注意、殴り合いの喧嘩になったのが事の始まりだった。
本来は「すみません」で済む話は、あっという間にエスカレート、「軍人に対する侮辱である」と主張する軍部と警察との全面対決となった。最終的に昭和天皇まで巻き込んだこの事件は「和解」という形で決着をみるが、実質的には警察側が折れたも同然だった。以降軍部による国家システムを超えた横暴が深まるきっかけとなった。いわゆる「ゴー・ストップ事件」というやつだ。
●ウィキペディア「ゴー・ストップ事件」
●おおさか100年物語「ゴー・ストップ事件」
⑭すべり台
ガキの喧嘩レベルの「ゴー・ストップ事件」には、当時の子どもたちも狂喜乱舞したに違いない。軍部はその精神年齢において子どもと変わらないようなので、しばしの間、昭和8年のすべり台で遊ぶことをオススメしよう。
⑮クライミング遊具
正式な名前はわからないけれど、登ったり、降りたり、ぶらさがったりする遊具だ。
⑯小舟
小舟に乗って粋な商家のご隠居が涼んでいる。船の先では奉公人らしき人物が投網漁。
こんな都会の川で何がとれたのだろう?
⑰三越大阪店
霧の中に浮かび上がる幻影のような建物は三越大阪店。老舗百貨店の風格を伝える建物だったけど、阪神大震災で大きく損傷したため、解体された。
新館で引き続き営業を続けた三越大阪店だったが、2005年、惜しまれながら閉店した。
⑱看板
もしかして右から「債券公債社債賣買」と書かれているんじゃないだろうか?詳しい情報求む。
⑲新井ビル
この絵葉書の中で確実に現存しているビルが2つあった。最後にその2つを紹介する。
ひとつは新井ビル。
もともと報徳銀行の大阪支店として1922(大正11)年に竣工したビルだったけど、肝心の銀行が昭和2年の金融恐慌で倒産。以降、人手にわたり貸しビルとして現在まで運営されてきた。現在は建物の雰囲気を利用した洋菓子屋さんやアート・ギャラリーなどがテナントとして入居している。
●FABRICAさんのサイトに現在の「新井ビル」が詳しく紹介されている。
⑳北浜レトロ
そしてもうひとつは、現在「北浜レトロ」と呼ばれているこの建物。
何と1912(明治45)年の竣工らしい。現在は建物の雰囲気を生かして英国風のティールームになっているようだ。
●こいちゃの日記さんに現在の「北浜レトロ」が詳しく紹介されている。
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昭和8年のある夏の日、ひとりのカメラマンが一枚の写真を撮影した。それは一瞬の光景をとらえたに過ぎなかったけど、その光景は今なお生き続け、膨大な情報を発信し続けている。
●画像とその情報に関する試みについては、「くるり全画像解説」も参照下さい。
ディスカッション
コメント一覧
すごい!すごい!!
1枚の絵葉書にこんなに沢山のことが詰まっている。
これってもう、1つの「大阪風物物語」ですね。
>あきなべさん
僕のblog史上1,2を争う長い&重い日記を読んで下さいましてありがとうございます。
大阪ってただでさえ奥深いトコロなんですが、たった1枚の写真にこれだけの情報が詰まっていると気付いた時に、何が何でも書いてやろうと思いました。この企画、今後もいい題材にぶつかったら続けてみようと思います。
凄い!感服しました。
同様の企画の第2段、期待してます。
>k_guncontrolさん
ありがとうございます。
期待されるとプレッシャーになりますが(笑)。