一郎さんの市川市長選挙

中学の恩師、吉野一郎先生が市川市長選挙に出馬したという話を友人から聞いた時は、びっくりすると共に「なるほど!」と思いました。実は数日前から拙記事「中学の同窓会と文学史カルタ」へのアクセス数が異様に上がっていたのです。こういう妙な記事が上がる時は何か予想外の事が起こるものです。

1980年6月27日、横浜の中学校で最後の修学旅行を終えた僕は、その足で電車に乗り、一人市川市へと引っ越しました。
家族はすでに修学旅行の前日に引っ越しをしてました。

翌6月28日は土曜日。
始業時間前に母と市川市立福栄中学校へと行きます。ここは行徳地区の人口増加に伴って新設されたばかりの学校でした。あさイチで新しい担任の先生と面談をします。これが吉野一郎先生との出会いでした。当時の先生は27歳ぐらい。やや長髪で眼鏡をかけており、見た目は国語の先生という感じだったが、文学少年っぽい神経質という印象はなく、何となく大雑把な印象がありました。

福栄中第一期生卒業アルバムより。オトナになってようやく意味がわかる。

この時の僕は、幼稚園の時から慣れ親しんだ友人たちと別れて、不安で一杯でした。
しかも翌週の月曜日からいきなり期末テストがあるという事です。不安がマックスの中で自然と横浜での成績の話となりました。ここで母が張らなくてもいい見栄をここで張るものだから「やめてくれぇ」と僕のプレッシャーは増幅するばかり。それを聞いているのか聞いていないのか、左から右という感じで先生が聞き流しているのが印象的でした。

その後「実は卒業アルバムの全体写真はすでに撮影したので、君の写真だけ撮るから」と言って、グラウンドでカメラに収まりました。
今でも福栄中の卒業アルバムを見ると、自分だけ右上で枠におさまって半泣きの顔をしているのがわかります。

その日の授業は頭が真っ白でよく覚えていないけど、授業が終わってから先生に呼び出され期末テストの出題範囲についてガイダンスを受けました。
「国語は教科書が違うから、ここからここまでしっかり読むのだ。特に主人公の心の変化については理解するように。数学はそれほど内容は変わらないと思うからよきにはからえ。理科は〇〇の法則についてはしっかり勉強するのだ。家庭科は全く違うのでここからここまで読みたまえ。」という具合で新しい教科書に線を引いてゆく。なぜ武士言葉なんだろう?とは思ったけど、何となくユーモラスで何となく飄飄とした感じの人で、今までとは違うタイプの先生だなぁと思ったのです。

何しろ転校という経験は初めてだった。僕にとっては成績の事よりも、うまく仲間ができるかどうかの方が心配でした。
日を追うにつれて周囲の席から一人二人と会話する仲間が増えていった。最初は色々とわからない事を質問する所から始まったんじゃないかな。席が近かったO君、T君、K君あたりが最初に会話したクラスメイトだった。これはずっと後になって彼らから聞いた話だけど、最初僕は「ガリ勉君」だと思われていたらしい。その割に市川のヤンキーがするような白いベルトにスポーツバックで通学していました。どうもそこがミステリアスだったそうです。転校から数日後、僕が昼休みの暇つぶしに本を読んでいました。周囲は「昼休みに読書かよ」とも思ったらしい。だけどよく見るとそれは江口寿史の「すすめ!!パイレーツ(文庫版)」で、「マンガかよ!」と呆れて警戒心が解けたそうです。

吉野先生....当時はそういう呼び方をする生徒はいません。みんな「一郎さん」と呼んでいました。
我々が15歳、先生は当時26歳ぐらい。当時はそう呼んでも許される年齢差と、そういう空気感がありました。

一郎さんの国語の授業は....とにかく変でした。
みんな覚えているのは世良公則とツイストの「あんたのバラード」を歌っていた事。あれはよく聞かされました。
あと、当時の福栄中の制服は学ランだったのだけど、生徒にそれを貸してもらって教壇で着ながら授業する。「おーこれを着ると、懐かしい青春時代を思い出すなぁ」と言って「赤い夕陽が 校舎をそめて(舟木一夫「高校三年生」)」を歌いだす。これは以前も書きましたが「今日はヘンな声で授業をします」と言って授業をする。おそらく『犬神家の一族』の青沼静馬の物まねだったんだと思います。

あとは「〇〇なのだ」「〇〇でござる」「〇〇である」といった武士言葉が時折授業や会話に出てくる事などを覚えています。中三の女子の中には下手すれば一郎さんよりオトナな人もいて「普通に授業して下さい」と抗議する人もいました。

肝心の授業の中身は忘れてしまったけど、松尾芭蕉『奥の細道』の授業を聞いているうちに、平泉や山形の立石寺に行きたくなり、本当に卒業直後に旅行に行ってしまったのは事実だ。「この立石寺というお寺でだな。本当は蝉がミンミン鳴いていてうるさいはずなのに、逆にそれが静かだと言い切っているのだよ。そこが芭蕉の凄い所なのだ」という調子だったと思います。

行く時期を間違え、蝉の声どころか八甲田山状態だった立石寺。1980年3月。

12月にジョン・レノンが亡くなった時、落ち込んでいた僕に対して、一郎先生はこう言いました。
「おいお前の好きなジョン・レノンは、いまお前の持ってるジョン・レノンだ。それを大切している限り、お前の中でジョン・レノンは生き続けるのだ」。なんだか分かったようで分からない事を言うわけですが、その意味がようやく理解できるようになったのは、オトナになってからでした。

一郎さんの言動は理解を超えていたのでしょう。当時荒れていた福栄中学校で「分かったようで分からない吉野一郎」という存在は、ヤンキーにも脅威だったようです。一郎さんが廊下で悪さをしている彼らに何かを言うと、「はーい」と言って蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく光景を覚えています。一郎さんはまるで不可侵な存在のようでした。一部では「炎の一郎」とも呼ばれていましたが、自分はそういう印象はありません。
そんな一郎さんは卒業後もクラスのあるヤンキー生徒の面倒を見ていたようです。数年後にファミレスで行われた同窓会で、今後は彼女のために更生し一生懸命働くという事を皆の前で誓わせたのです。

それから30年という歳月が流れた2013年、一郎さんの定年を祝う同窓会が開かれました。

この時の事を書いたのが「中学の同窓会と文学史カルタ」です。僕が「先生がのんびり日々を過ごすようには見えないなぁ」と言うと「そうなんだよ。俺もそれは凄くわかっている」とおっしゃったのは、記事に書いた通りです。

2022年の市川市長選挙、今回の立候補にあたっての弁はこんな感じです。
「この数年よく見てきて、国政でも地方議会でも投票したいという人物がいない。はっきり言えばそういうこと。これは自分に投票するしかないなという感覚」。この弁も「吉野節だなぁ」と思ってしまいます。

テーマは「お金をかけない選挙」。選挙用のビラ(画像)も手書きですし、名刺は手書きのスタンプを使って大量に作ったようです。そこには魯迅の言葉が書かれています。「歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。

これを我々は、まさに目の当たりにしています。ウクライナ侵攻に対して世界中の人たちがSNS(主にTwitter)を通じて繋がり「No War」を突き付けています。そこには物凄い熱気があって、各国の政府が重い腰を上げて対応せざるを得ない状況となりました。おそらく派手な選挙パフォーマンスもないでしょうけど、この先生なら、等身大で身近な市長となり、市政をもっと面白いものにするだろう。そう思いました。

3月15日、偶然にも市川市の取引先で商談があったので、タイミングが合えばお会いしたいなと思い、一郎さんに電話しました。
打合せ先が葛飾八幡宮に近いという話をしたら、自転車で全日警ホールまで駆けつけてくれたのです。

一時間ばかり話し込みましたが、ほとんど政治の話ではなく思い出話とか家族の話ばかりでした。
聞けば「あまり街頭演説もする気なかったけど(我々の4期下ぐらいの)教え子がお膳立てしてくれて、行徳駅前で街頭演説をする事に決めた」との事でした。また公示後に市川市内500ヶ所ぐらいのポスター貼りも、教え子たちで分担して行うとの事でした。

「する気なかった」街頭演説も、どんどんやる気になったようで、息子さんのTweetによれば次第に予定が増えてゆきました。
そして3月21日(日)は市川駅駅頭で演説を行うとの事。これは行くしかないなと、あさイチで横浜を飛び出しました。

まさか連続で市川に行くとは自分でも思いませんでした。僕自身「ご高説を賜る」つもりは全然なくて、久しぶりに先生の授業を受けてみたい、「一郎節」が炸裂するのを聞いてみたい。そんな気持ちで行ったのです。

同期の友人も駆けつけてくれて一郎さんも喜んでくれました。
さらに埼玉に住む僕の音楽仲間が僕のTweetを見て興味持ってくれたようで「どんな人か見てみたい」との事で来てくれました。

いきなり飛び出した公約は、今日の朝イチで思いついたものらしい。「当選した暁にはこの名刺(画像)を持って来ていただけたら有名な市長室に招待」だそうです。これは楽しそうですね。「はいここ拍手するところです」というくだりなどは相変わらずの一郎節でした。

あと、市川市役所の中央ロビーにシャワー室、テスラ、高級家具を並べて市民の誰もが見れるようにするとか。もちろん冗談だと思いますが。先生曰く「立候補者の中には100も公約並べている人がいるけど、だいたい公約なんて100も実現できるわけない。自分は3つだけです」と前置きして、教育(給食の無償化)、福祉(保育士・介護士の待遇改善)、地域の充実(誰もが住みやすい街)という話となりました。彼の演説を聞いた人は、その人柄の面白さに当てられる。最初は泡まつ候補の扱いだったのが、次第に予想順位が上がってきています。政治家の口八丁に嫌気がさしている層を確実に取り込んでいる印象があります。演説する事は大切って事ですね。

そして3月27日投票。残念ながら一郎さんは落選でした。
しかし獲得した6637票は、現職市長を追い落とし、投票率をUPさせた。僕はそう思っています。

先生、お疲れ様でした。でも面白かった。
先生は今回の選挙を通して大勢の教え子たちに生きる上で大切な事を教えてくれました。
政治に文句を言う前に自ら変える行動をしなければならなければ、それは変わらないという事。これは政治に限りません。
そして新しい事を始めるのに年齢など関係ないという事です。

こんな素晴らしい先生は他におりません。
自分は先生運が本当に良かったと思います。明日からも楽しい人生をお送り下さい。