雫石事故の街で聞いた123便の話

1971年7月30日のことだ。
岩手県の雫石町上空を飛行中だった全日空旅客機と航空自衛隊の訓練機が空中で衝突した。
自衛隊のパイロットは辛うじてパラシュートで地上に降り立つ事ができたが、旅客機の方はそうは行かなかった。
全日空機は空中分解し、主要部分は西安庭地区東側の山に墜落、162名(乗客155名、乗員7名)全員が死亡した。
いわゆる「雫石事故」だ。

この時、僕は5歳だった。
この事故の27日前に発生した「ばんだい号墜落事故」の事は、友達の叔母さんが遭難した事もあって覚えているけど、不思議なぐらいこの事故の事は覚えていない。

5月1日。僕は17年ぶりにこの町を訪れた。前回は子供を連れて小岩井農場へ遊びに行ったわけだから、今回は自由に動き回る事にする。

当時の事故調査報告書によると、衝突した全日空機と訓練機の破片が集中的に落下した場所は3個所ある。
一か所は前述した西安庭地区、もう一か所は御所ダムの竣工(1981年)によって御所湖の水底となった。
そしてもう一か所が生森山山麓に近い集落だ。まずはここを訪れた。

たまたま道路沿いでくつろいでいる品の良いおばあさんがいたので、当時の事を訪ねてみた。
「我が家を建てて間もない頃でした。誰かが"飛行機が落ちたぞ!"と言うので、その方向に走っていった。(遠方を指さして)今は大崎電気の工場があるあたりだったと思う。当時は広い畑があって、その中に飛行機が墜落していた。カメラで写真も撮った」。

岩手岩崎電気
岩手大崎電気入口。1970年当時は広い畑だった。

僕が「その時の写真はまだお持ちですか?」と尋ねると、「さぁ、もうどこにしまったかわからない」との事だった。
さらにおばあさんは続ける。
「その直後だったかな、警察の人が大勢やってきて、そのあたりを立入禁止にしちゃったから、その後の事はわからない」。
そんな話だった。お礼を言っておばあさんと別れると、彼女はバス停のある方向へと去って行った。

後で調べてみると、どうも大崎電気のある農地に落ちたのは訓練機の左主翼だったようだ。

ふと周囲を見渡すと、自宅の前で何やら片付け作業をしているご老人がいる。
この方にも聞いてみる事にしよう。

再び「すいません、昭和46年の雫石事故についてお話を伺いたいのですが...」と切り出す。
ご老人は作業の手を止めると北の方、岩手山の方を指さした。
「あれはね、岩手山からこっちに向かっていて、ぶっかったのはもっとこっち(手前)の方でですね。このあたりにも破片が色々落ちてきた。機体のほとんどは...ここからも見れますが(南の方を指さして)、あの山...慰霊の森ね。あそこにほとんどが墜ちた」と教えてくれた。

ところが、僕が「事故の時はどんな経験をされましたか?」と尋ねると、いきなり話は予想外の方向へ進みだした。
「私はねぇ。RCCにいたんですよ。あなた知らないかなぁ。中央救難調整所っていうところ」。

ご老人と話をしていて、いきなり話が飛躍するというのは「あるある」なのだけど、飛躍しすぎて理解を超えていた。
「えっ、救難調整...ってことは、雫石事故の時に捜索されていたとか?」
「いや違う違う。日航ジャンボが墜落した時。救難団本部で通信の当直だったんですけどね」

質問の想定を超えた内容に、理解が全く追いつかない。

それに気づいてか、そのご老人は一旦家の中に入ると、パンフレットを持ってきて、僕に見せてくれた。

ご老人から伺った話、その場でパンフを拝見した中身、後追いの知識とがごちゃ混ぜになるけど、「航空救難団」というのは航空自衛隊のいち組織で、主な任務は航空自衛隊機の墜落事故が発生した場合に捜索と救難を行う部隊。しかしながら必要に応じて一般の航空機の遭難や災害派遣などにも対応する空の組織という事らしい。

ご老人のおっしゃった「RCC」というのは「航空自衛隊中央救難調整所」の事で、「航空救難団は航空総隊司令官のもとに設けられる航空自衛隊中央救難調整所 (RCC) で、日本国内の航空事故を一括して情報収集し、各地の救難隊が迅速に対応する体制が敷かれている。(Wikipediaによる)」らしい。

つまりこのご老人は航空救難団の情報中枢となる「中央救難調整所」で通信担当をしていた、という事だ。
そして1985年8月12日のあの日の夜、たまたまこの方は通信の当直だった。

「当時はどこにいらっしゃったんですか?」と質問をすると、
「私は司令部にいました」。
「司令部って横田ですか?」とよくわからないままに質問すると、
「いや違います。入間基地。埼玉県入間市の基地ね。前は米軍もおったからジョンソンとも名前にもなっていたね。ほとんどは横田基地の方で(注:主要機能という意味か?)、近くには立川もありますけどね」とかえってきた。

ここでようやくご老人のお名前を確認する。ここでは仮にAさんとしておく。
Aさんは1943(昭和18)年生まれ。1962(昭和38)年に自衛隊に入隊し、1997(平成9)年に「少尉(3等空尉の意味)で定年した」との事だ。

「えーとAさんは、日航ジャンボの墜落事故があった時、たまたま入間基地の"RCC"で通信の当直だったという事ですね」と改めて確認する。
「まあ当直って言うか...そうです。ここの勤務は24時間勤務で、24時間、明け、オフ、日勤、日勤、24時...4人でローテーション回していた。たまたま私が当直でした。あっ、ちょっと待ってて」とAさんは再び家に入ると、数冊の冊子を持ってきた。

「こちらは事故の直後に書いたものです」
古びたA5判ぐらいの冊子は、どうも航空自衛隊の隊内誌(会社で言う社内報)のようだ。
何冊かあって、うっかり表紙を撮影しなかったけど、多分「碧」とか「雲」とかそんな漢字の入ったカラーの表紙だったかもしれない。
ここにAさんが寄稿した"エマージェンシー"という文章があった。
生々しい体験談だ。これを僕に見せながらAさんは説明をしてゆく。文章部分を写メらせてもらったので、以後はそれをひもときながら書いてゆく。

「あそこには直通の回線がたくさんありました(陸上、海上、航空自衛隊、警察庁、航空局、海上保安庁、米軍 e.t.c.)。あの日の夜(1985年8月12日18時34分頃)連絡が来たのはADCC(中央防空管制所)からで、内容は『日航機に緊急事態発生。操縦系統不能』というものでした」。
これをAさんの書いた文章でさらに補完すると、位置は『DF3019(自衛隊航空図上の標点)Heading Northwest(進行方向は北西)』だったようだ。

日航ジャンボの機内で爆発音(機体後部圧力隔壁が破損)がしたのが18時24分35秒頃とされているから、Aさんの元に通信が入ったのはその10分後、という事になる。

その「隊内誌」にAさんが書いた文章によれば、

18:36 空幕運用課に報告するとともに東京ACC(東京航空交通管制部)に問い合わせをすると「エマージェンシー機は羽田から大阪行きのJAL123便、乗客・乗員524名でドアの調整がきかないようだ。どうも尾翼の方のようだ...ドアオープン、詳しい事は不明」という事だった。

Aさん「エマージェンシー」より

「この時、どう思いましたか?」と尋ねると、
「またウチだ(自分だ)!とそう思いました。(雫石事故の時は)管制所から"盛岡West 10マイル(に墜落)"と聞いたものだから、10マイルって言うとちょうど16kmだからちょうど雫石なんですよね。上官からも"おいA、お前雫石の出身だったよな?これはお前のとこじゃないか"と言われました。あの時は全日空の機長が"アネイブルコントロール"を叫びながら墜落していった。そして今度もまた"アネイブルコントロール"。大事にならなければいいなと思いました」

自分の故郷で身内の事故によって多数の死者が出たという事実、そして再び民間旅客機の緊急事態に直面するAさん。
1985年8月12日のあの晩、Aさんなりに「運命」を背負ってしまったという意識があったと思う。

実はAさんの「またウチだ!」という言葉には、もう一つ曰くがあった。
昭和26年5月13日、雫石駅近くの高橋製材所の貯木場から出火した火は、折からの風速10メートルの風に煽られ、瞬く間に市街地を蹂躙した。いわゆる「雫石大火」だ。
「私の実家は駅の近くにあったんだけど、焼けてしまいました。雫石の街はウクライナの戦地みたいに焼け野原になってしまった」。
Aさんは雫石町で起こった2つの大きな出来事に直接的間接的に関わるという経験があったのだ。

Aさんが見せてくれた肩章

気になりだしたAさんはADCC(中央防空管制所)に連絡して「現在エマージェンシー機はどのへんですか?」と尋ねる。
「エマージェンシー機は現在(18:43)EF0040、Heading East(進行方向東)」とのことだった。

Aさんは「東(羽田)に引き返しているんだな」と判断し、百里基地の救援隊にJAL123便の緊急事態の概要を伝達し、同時に事が重大になりそうなので、防衛部長に緊急事態発生から現在に至る経過を報告し、指示を仰いだ。

このような話を聞きながら僕は「これは大変な話を聞く事になってしまった」という実感がじわじわ沸いてきていた。
まさか1971年の「雫石事故」の証言を尋ねて、このような話に展開するとは思いもしなかったからだ。

さらに通信が入った。

18:56 東京ACC(東京航空交通管制部)のコントローラーから「当該機は重大な状態にある、ポジション横田北西三十マイル、パイロットは何か叫んでいる。何を叫んでいるかよくわからない。エスコート機をあげてもらいたい」という情報を得た。エスコートスクランブルの要請は初めての事である。

Aさん「エマージェンシー」より

AさんはただちにADCC(中央防空管制所)にその要請を伝達した。その後も東京ACCほか各所から入ってくる情報を逐次百里基地に連絡し続けた。

19:00 東京ACCから連絡が入る。「機影を見失った。横田から35マイル北東。18時56分 (Target Lost 35miles Northwest of Yokota 0956Z)」。
空幕に報告しながらAさんは「これは大変なことになる」と思った。

「それで米軍にもレポート(情報という意味か?)を通報して、そして米軍からもレポートを受けながら後を追って追跡したのですが...あの飛行機には坂本九ちゃんも乗っていたんですよね...」とAさんは語ってくれた。

以下再びAさんの記述による。

19:03 ADCC(中央防空管制所)から「百里からエスコート・スクランブル。19時1分離陸」との情報を受け、Aさんは東京ACCに通報した。
19:06 東京ACCから再度「18時56分、横田タカン 三百三度三十三マイル、レーダーロスト」という情報が入ってきたので、これも空幕に報告した。
19:19 百里救援隊より「夜間飛行訓練中の航空機全機に対し帰投指示を発し、また搭乗員は救難出動に備えて全員指揮所に控置する」との報告を受けた。

要救難事態発生の報を受けた航空救難団指令、飛行群司令、防衛部長及び関係者が登庁、RCC内に指揮所が開設され、百里、浜松救難隊に対し全機出動準備を指示した。続いて松島、新潟、小松各救難隊に対しても出動準備の指示がが出された。
19:39 団指令は百里救難隊に対して救難機の出動命令を発し、また松島、小松救難隊及び救難教育隊にも、救難機の入間基地への集結命令を発した。

Aさん「エマージェンシー」より

とAさんはその後の流れを書いている。

御巣鷹山での遺体回収には「航空救難団」の部隊も協力している。そのお話もしてくれた。
「雫石事故の時はシートベルトをしていなかったからあれだけど、123便の時は乗客がシートベルトをしていたものだから、墜落の衝撃で遺体が真っ二つですからね。立ち木に突き刺さっている遺体もあった。隊員の中には一週間食事が喉を通らかなった者がいました」。

こうしたご高齢の方がたのお話を聞いていて思うのは、傍から見ると歴史的かつ稀有な体験をされたにも関わらず、ご本人にはあまりそういう自覚がないという事だ。
僕の祖母も実家が米屋で1918(大正7)年に米騒動を経験しているにも関わらず、そんな話を娘にもしていなかった。
「だって尋ねられたことがないもの」と笑い流していたことがある。
あまりの内容の凄さにAさんに尋ねてみた。

「(これだけの経験をされながら)今までテレビや新聞などから取材を受けた事はないんですか?」
「一度ですね。羽田空港の管制室に招待っていうか、会議に招かれまして、私も当事者だったものだから一代表としてお話はしたんですけどね」との事だった。

話の最後に、Aさんは再び雫石事故の話をしてくれた。
「あの時の"学生(衝突の当事者でパラシュートで降下した訓練生という意味)"ですが、その後はうちのレスキュー(救難団)に来て松島でハチロク(F-86?)のパイロットだった。それと、その墜落した訓練機から機銃を盗んだ人がいた。秋田から来た人だったと思う。そういう話は聞いた事があります」。

話は以上だ。それ以上でもそれ以下でもない。
最後にAさんに「名前を出しても構わないか?」と尋ねた所、「いや、名前はちょっと...こういう話があったよ位にして欲しい」との事だった。

僕は「RCC」と「ACC」と「ADCC」がどういう相互関係なのかがわからない。
この文章は航空機や自衛隊に関しては全くの門外漢が書いている事をお断りしておくけど、オーラルヒストリー(口述歴史)がどれほど重要かは自覚している。
だからオーラル・ヒストリーとリアルタイムで書かれた文献...残念ながら正確引用元は不明のまま...からの引用で構成をしてみた。気になる方は国会図書館が自衛隊関係の図書館でも行って確認し、実際に雫石を足で歩いてAさんにお会いしたらよいと思う。ただ「公表された記録」「文献」「記憶」の3つを弁別し、各々に敬意を払うような歴史観がある方でないと、お会いするのは難しいと思う。

これは余談。
実はこの1か月ほど前、僕は「三島由紀夫に斬られた方」にお会いして貴重なお話を伺う事ができた。
何の偶然だか...両人とも自衛隊関係者だし、雫石事故と三島事件(1970年)は同時代の出来事だ。
僕がAさんにその話をしたところ、これまた面白いお話を聞けた。

「三島由紀夫の時はですね。石巻にいたんです。あそこに松島救難分遣隊というがあったんです。あの日はちょうど外出してですね、石巻でパチンコやってたんです(笑)。当時はまだレバーを指ではじくやつね。そうしたら三島由紀夫の事件が起きてですね、それでパチンコをやめて部隊に帰ったんです」。

三島由紀夫が市ヶ谷の総監部で監禁したのは陸上自衛隊の東部総監だった。
その行為が遠く離れた石巻で、航空自衛隊の救難団のいち隊員にまで影響を与えていたという事実には、ただただ驚くしかなかった。