福井陸軍大演習の昭和天皇(6) -藤島神社行幸-

歴史の切れ端

福井陸軍大演習の昭和天皇(5)-自動車鹵簿(ろぼ)は進む、もしくは桐生事件のこと-」の続き。

【御親拝の儀】
昭和8年10月28日午前10時10分をやや過ぎた頃だったろう。
昭和天皇は佐藤宮司の先導で150段の石段を上って藤島神社(福井市)の境内へと到着した。そこには嶺北神職会員、藤島神社奉賛会役員、県の高等官夫人、そして新聞記者・写真班など300名が静かに見守っていた。天皇はその前を軽く会釈しながら通りすぎた。
昭和8年特別大演習福井県記録「藤島神社行幸」
(昭和8年特別大演習福井県記録「藤島神社行幸」)

福井特別大演習を記録したもののうち「福井県記録(近代デジタル・アーカイヴ蔵)」では「中門前石階下」となっている。写真に写っている鳥居(中門)前の石段だろう。ここで岡本愛祐侍従の奉仕のもと「御手水の儀」が、次いで高羽主典(さかん)によって「御修祓(ごしゅうばつ)の儀」が行われた。この儀式を文字通り解釈するならば、天皇はここで「身を清め」「穢れを祓った」ことになる。

表向きは天皇が「神」とされていた時代だ。たとえば神社への行幸を「御親拝」と表現することがあるが、これは人対神というよりは神対神のニュアンスに近いだろう。素人考えでは神はもともと穢れなき清浄なものなはずなのだが、神社でこうした儀式が(間違いなく慣習として)行われていたということ、とても興味深い。

さて、いよいよ拝殿に入った天皇は、宮司から鈴木貫太郎侍従長を経て玉串を受け取った。そして神殿に拝礼した後、侍従長を経て再び宮司にそれを渡した。宮司は神殿への階段を昇って、玉串を奉奠(ほうてん=ささげること)をしたのち、再び階段を降りた。「福井市記録」によれば「御拝」という一連の儀式はこうして完結した。

天皇は宮司の先導により拝殿から出て、再び人々の前に姿を現した。中門(鳥居)前の石段を下り、静寂に包まれた石畳を歩みはじめた。

【歴史の切れ端】
時に昭和8年10月28日午前10時20分前後だったと推定される。「写真班席」に待機していたカメラマンたちは、一斉にシャッターを切った。
その「瞬間」は歴史の切れ端となって、永遠に記憶されることになった。
昭和8年福井大演習の昭和天皇 藤島神社行幸その1
(藤島神社の昭和天皇その1-画像は藤島神社宮司代務新田義和様のご協力によって実現した初公開のもの。新田様ありがとうございました-)
昭和8年福井大演習の昭和天皇 藤島神社行幸その2
(藤島神社の昭和天皇その2-祖父のアルバムの写真-)
昭和8年福井大演習の昭和天皇 藤島神社行幸その3
(藤島神社の昭和天皇その3-藤島神社Blog使用のもの-)
昭和8年藤島神社行幸
(藤島神社の昭和天皇その4-「福井市記録」掲載のもの-)
藤島神社
(そして現在の藤島神社。新田義和様が同一地点から撮影してくださいました)
写真撮影地点とアングル(推定)
(「福井市記録」に掲載された藤島神社境内図から、写真の撮影地点とアングルの推定図を描いてみた。ただし原図は正確でないと思う)

【昭和天皇】
昭和天皇
この時、昭和天皇は何を祈ったのだろうか?
昭和8年の天皇が精神的にも辛い時期にあったことは、多くの研究書が指摘している。軍部は右傾化を続け、関東軍の暴走は続いていた。陸軍内では青年将校らによる下剋上の風潮があり、その求心力として天皇の弟の秩父宮の人気が高まっていた。「天皇を中心とした国家」なんてちゃんちゃらおかしい。何一つこの人の下で統制が取れているものなどなかったのが実情だ。そんな中で天皇の意図に反して国際連盟の脱退が続く。もう何もかもが滅茶苦茶だ。
天皇は心労によって6月までの数か月で7.5キロも体重が減ってしまった、と高松宮日記には記されている(伊藤之雄「昭和天皇伝」)。天皇が案じたのは世界的に孤立化を進める日本の「行き先」だったに違いない。
昭和天皇・孝宮・順宮・皇后
(昭和8年1月16日撮影。昭和天皇、孝宮、順宮、皇后)
そんな中で天皇が楽しみにしていたことがあるとすれば、それは皇后良子の懐妊だった。
皇后はすでに4人の内親王を儲けていたが(うち一名は夭折)、いよいよ次は親王か?という期待が高まっていた(それはそれで天皇夫婦にとっては物凄いプレッシャーであったとは思うが)。
昭和8年12月23日未明、帝都に鳴り響いたサイレンは2回、つまり男子の誕生を告げるものだった。

【鈴木貫太郎と本庄繁】
この二人のことも書いておこう。
鈴木貫太郎
(鈴木貫太郎 侍従長=昭和天皇の向かって左すぐ後方の侍従服)
前々回の記事で書いたように、昭和4年以来侍従長の職にあった鈴木貫太郎は、とりわけ天皇の信任が厚い人物であった。昭和12年の二・二六事件で反乱軍の襲撃を受けて重傷を負うも一命はとりとめた。昭和20年4月7日には内閣総理大臣へ就任し、天皇との阿吽の呼吸で日本を終戦へと持っていった。
本庄繁
(本庄 繁 侍従武官長=昭和天皇のむかって右側の陸軍将官)
鈴木貫太郎とは対照的なのがこの人。昭和6年に満州事変が勃発した際に本庄は関東軍司令官だった。そうした理由などから天皇は本庄の侍従武官長就任に不満や懸念を抱いていた。二人の関係は決して円満なものではなく、天皇は閑院宮参謀総長に「不満足だが(侍従武官長に)採用する」とグチれば、本庄は本庄で湯浅宮内大臣に「どうも陛下は軍事にご熱心ではない」とグチをこぼす、という具合だった。この二人が衝突するのは昭和12年の二・二六事件の時だった。本庄が再三にわたって反乱軍を弁護したのに対して「私の頼みとする老臣を殺戮するような凶暴な将校たちに、何の許す理由などあろうか」と激怒している。結局のところ、本庄は身内から反乱軍に参加して人物がいたため侍従武官長を辞職、終戦とともにGHQの戦犯逮捕を避けて割腹自殺した。

【発御】
再び佐藤宮司の先導で150段あまりの石段を降りた天皇は、10時27分第一鳥居前で御料車メルセデス・ベンツ770グローサーに乗りこみ、次の行幸先である「福井輸出絹織物検査所」へと出発した。

佐藤宮司の「謹話」が「福井市記録」にのこされている(原文を読みやすくしている)。

何という輝かしい日でありましょう。今日この日こそ我が藤島神社史上永久に栄ある日であります。神社のため、またご祭神新田公のためいかに今日の一日を待望しました事でしょう。午前10時9分、畏くも天皇陛下には御予定通りわが藤島神社に着御あらせられ、尊き御足跡を印せさせ給い、長き石段をも御厭いなく玉歩御軽やかに御昇降あらせられましたことは誠に恐懼の極みに存じ奉る次第で御座います。殊に神前におかせられましての御拝の御恭(おんうやうや)しさに至りましては、かくて下万民に敬神の範を垂れさせ給うことぞとながら恐拝し奉りました次第でございます。ご祭神新田公の御霊も定めし聖恩の有難さに感激致し、一層尊き神威を皇国の上に加え奉ることでありましょう。私どもはこの盛儀にあたり微賤の身をもって側近奉仕の無上の光栄に俗し、しかも大過なく大任を果たし、10時27分つつがなく 御発輦(ごはつれん)を奉送するを得ました事は全く御稜威(みいつ)と神明の御冥助の然らしむる所と只々感激あるのみで御座います。今日からはこの感激を銘記して神社奉仕の上に一層の精進を致しまして尊き聖慮に對へ奉ると共に御神徳の宣揚に更に一段の努力を捧げる覚悟であります。ここに謹んで聖寿の無窮を祈り奉ります。

天皇が藤島神社行幸に要した時間は18分だった。

祖父のアルバムから -陸軍特別大演習の昭和天皇(7)-」に続く。

歴史の切れ端