丹後震災記念館の油絵

京都丹後半島の峰山町に「丹後震災記念館」なる施設があることを知った。
「災害、事件マニア」の宿命としてこれは行くしかない。

その前に「丹後震災」って何だ?
昭和にはいって間もない昭和2年3月7日午後6時26分、京都府の丹後半島をM7.3の大地震が襲った。「北丹後地震」と呼ばれるこの地震は阪神淡路大震災以前に近畿で発生した地震としては最大級のもので、死者2925名という大惨事となった。
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「北丹後地震」は64年にわたる昭和史の中で最初に登場した大事件となった。
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昭和はこの地震から始まったといっても過言ではない。

このとき、最大の被害を蒙ったのが峰山町(現在の京丹後市)だった。峰山は天橋立のある宮津市から15kmほど内陸に行った街。地震が発生したのが夕食どきであったため、倒壊した民家から火災が発生、死者の多くは焼死だったという。峰山町では4人に1人が亡くなり、家屋の97%が倒壊もしくは消失した。

なお当時の地方の地震にしては珍しく被害の状況が映像に記録されている。僕が持っているのは10年ほど前にKBS京都でオンエアされた時のもの。倒壊した家屋には無情にも雪が積っている。民間人がくすぶっている家屋を消火するさま、軍隊が遺体の捜索をするさま、避難所がないため路上に畳を並べて焚火で暖を取る被災者たちの姿がのこされている。

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京都市内から峰山まで約2時間。ところがどっこいで、ようやくたどり着いたものの予想に反して建物は一般開放されておらず、武道の練成道場として使われていた。

考えてみれば「記念館」だからと言って、何かを並べている保証はない。
横浜開港記念会館に何も並べていないのと一緒だ。自分の迂闊さに気づきながら雨の中で呆然としていたら、たまたま稽古で居合わせた方々が「ご覧になられますか?」と建物内に入らせてくれた。
丹後震災記念館
階段は物置になっており、階上にも震災を記録した資料展示室の気配などどこにもなかった。
(後で知ったのだけど、年に1回だけ震災記念展示会をやっているらしい)
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建物は昭和5年の建築。当時この地方では珍しい鉄筋コンクリートの建物で、現在は京都府指定文化財(リンク先に建物の全景あり)になっているそうだ。ただ建物は雨漏りの進行が酷く壁の所々にしみができていた。そんな中で道場(というか講堂)に飾ってある3枚の油絵を撮影できたのはラッキーだったかもしれない。

「震災実況模写油絵(昭和11年)」は京都の伊藤快彦(やすひこ)の作品。京丹後市の公式サイトによれば、伊藤快彦は京都市左京区の熊野若王子神社の宮司だった洋画家で、戦前の京都洋画界の重鎮であったらしい。
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油絵の保存状態は決してよくなく、剥落が著しく進行していた。
倒壊し、炎上する家屋、軍隊による救出作業、被災民の光景....伊藤快彦が絵画を描いた当時、地震を記録した映像を参考にしたことはは明らかだと思う。

後日、調べてみたらインターネットで閲覧可能だった「峰山郷土史」を読んで驚いた。

本館建設の目的としては、震災殉難者の慰霊祭、震災記念物の保存、地震に関する研究、その他社会教化事業に使用するためであった。(中略)しかし、その後府の財務出張所が建物の一部を事務室に利用し、つづいて、奥丹後地方事務所が、これに代わってそのほとんどを全部を使用するに至って、震災記念館としての性格は消え、記念物、記念画等は一室に押しやられ(中略)三枚の震災画大堅額は煤けるにまかせたが、終戦後(中略)記念館も維持困難から(中略)峰山町へ無償譲渡され....

つまりここは、すでに戦前から記念館として機能していない「ハコモノ」だったというわけ。

なぜか天才小谷美沙子の「嘆きの雪」のメロディーが脳内を流れた。そうだ、彼女は宮津出身だったっけ。