富田隕石
(タイムリーな隕石ネタ。今回のロシアでの騒ぎに便乗したわけではありません。ハイ。)
大正5年(1916年)4月13日、午後一時ごろのこと。岡山県浅口郡の富田村(現在の倉敷市玉島)に突如、大音響が響き渡った。
(富田隕石の落下を記録した「岡山県気象報告」-大正5年-)
この村の北側、小高い丘陵となったあたりに「亀山」というところがある。
(山陽自動車道側からみた亀山の集落)
(地図でいうとH=紫のバルーンあたり)
亀山の自宅にいた小谷政十郎は『大砲の如き「ドロドロ」「パチパチ」なる音響(上掲書による)』を聞いた。
飛行機でも飛んできたのではないかと家を飛び出した所で、駆けつけた近隣の住民たちに出くわした。住民たちは口々に「今、北の空から何かが飛んできた。星石というものではないか」と言っている。
「星石」とは隕石のことだ。彼らは空中を隕石が飛んで行くのを、そしてこの付近に落下したのを目撃したのである。
(「この付近」。隕石が落下したのは中央の竹藪付近)
付近には異様な臭気がたちこめていた。
村人たちは落下した隕石を捜索する。だけど、何も見つからない。
隕石捜索を諦めた村人たちは、三々五々とその場を去っていった。
いっぽう小谷政十郎は隕石がこの付近に落ちたに間違いないと、丹念に周囲を探して回った。
(隕石はこのあたりに落下した)
さて、今でこそ廃れてしまったが、当時の富田村では除虫菊の生産が盛んだった。除虫菊は蚊取線香などの殺虫剤の原料として使われていた。
小谷の家から北へ35mほど離れた場所にそんな除虫菊の畑があった。彼がそのあたりをよく探すと畑の一部で菊の葉が散らばって、地面の土が乱れている場所がある。
彼がそこを調べてみると、深さ15cmほどの穴の中に異様な物が埋まっている。掘り出してみるとそれが隕石だった。
(富田隕石落下地点の碑)
(富田隕石)
何しろ土中に落下したのだから、その隕石は大変汚れていた。
彼はこの隕石を近くの「水中」に投じたところ、あたかも熱した金属を水に浸した時のように「シュウシュウ」と音をたてて、水泡が周囲に立ち上った。
後で岡山県気象台の所員が調査してみたところ、内部に硫化鉄の小球が認められたという。
「シュウシュウ」と音を立てたのは、この小球が「温熱を保持せし為ならん」と「岡山県気象報告」は述べている。
別の文献をみてみよう。
昭和28年の「天文月報」に「富田隕石のこと」というタイトルで岡山県金光図書館の藤井永喜雄氏が寄稿している。この人はアマチュア天文家で後に岡山天文博物館の館長となった人だ。
その文中で小谷政十郎の証言をこのように紹介している。
(「天文月報」-昭和28年(1953年)12月号- 日本天文学会)
シューシューと大きい音がしてドテッと丁度一升瓶が位いのものが落ちたらしい音がしたので捜しましたが見つからず、二度目に捜しました時、除虫菊の葉が散り、根元に穴があいているので手を入れて見ますと、一尺位の深さのところに堅く熱いものが手に触れました。早速竹で挟みだして見ましたら拳大の栗のような石でした。下の池で土を洗いましたが、その時石がジュージューと水を吸いました。角を少し割って見ると内側はセメント色の様でした。
さらに藤井氏は「隣人は曰く」として、文語体の証言を紹介している。
いぬいの方角より飛び来りたる様子なり。握飯の様で瓦の如く黒く小豆色を帯びいたり。碎(くだ)きて見るに内部はハガネの如く白く輝き居たり。重さは鋼の如し
この隕石は「富田隕石」と呼ばれるようになった。
Wikipediaでは「落下現象が多くの人に目撃され、なおかつ落下直後に隕石が採集された例は、世界的に見ても稀なケースである」と紹介されている。
さて、この「歴史の切れ端」に居合わせた人がいる。
僕の祖父、万寿夫(マスオ)だ。
祖父は亡くなる5年ほど前に、会社のOB会文集にこんな文章を寄稿していた。
確か私が小学三年生だったと思う。村の小学校でテニスに興じていた日のこと、天気がよいのにゴロゴロと雷のような音が聞こえ子供心にも珍しい現象であると思っていると、近所の大人たちが口々に「星が降った」と叫びながら走って行く。訳も分からず私もこれに続いた。
高台の一軒の農家にたどり着くと、人々は大人の握りこぶし大の石を交代で手の平に乗せ、まだ温かいと話している。私も触ると温かかった。
これぞ星ならぬ隕石だったのである。数年前、私が帰郷した際、兄(管理人注:後述するけど宗澤節雄さん=郷土史家)が面白いものがあるから見せてやるといって木箱の中から出されたのがこの隕石だった。私は驚きとともに遠い昔の思い出が彷彿としてよみがえった。
(宗澤萬壽夫「時事OBクラブ 15年のあゆみ -平成元年(1989年)-」)
この人は天津事件(日本軍が天津イギリス租界を封鎖した事件)に遭遇したり、岡山大空襲に遭遇したりと、歴史上のいろいろな事件に居合わせているのだけど、宇宙からの隕石落下というのはこりゃまた凄い。
(隕石落下地点の真横を山陽自動車道が走っている)
さて、長い宇宙旅行の末に富田村に到達したこの隕石は、その後行方不明となる。
前掲の藤井永喜雄氏の「富田隕石のこと」は、こんな文章で始まっている。
大正6年以来その行方が不明だった富田隕石が尋ねに尋ねた甲斐あって、ヒョッコリ思わぬ處(ところ)から手に入ったのは去る八月十八日でした。浦島太郎の玉手箱を開けるのもかくやと思われる如く弾んだ気持ちで箱を開けば案に違わず「茶の握飯大の握飯形」「拳大の栗」と聞いていた通りの隕石が節羽二重の白座ぶとんを敷いて〇なく鎮座!!
在中の証明書(※1)は曰く....
(管理人注:〇字は判読不可能.証明書の文章は長いので、この記事の最後に引用する)
またWikipediaでは、
その後、1953年(昭和28年)に浅口郡金光町の藤井永喜雄が、落下地点の畑の所有者である中西新三郎の末弟が、この隕石を所有していることを知り、のちの1953年(昭和28年)夏(※2)に隕石の試片3.2グラムが国立科学博物館の村山定男によって科学的解析が行われた。
と書かれている。
(落下地点は左手の藪の中の小道を入ったところ)
つまり落下の翌大正6年から昭和28年までの間、この隕石は行方不明だったわけだ。
その間、この隕石はどこにあったのだろう?
WEB上で調べてみたら、それが書かれている記事にでくわした。
Mizuさんという管理人さんが「玉島こらむ!たまたま」で「富田隕石」という記事でそのあたりの経緯を書かれていた。
そこで僕はMizuさんにご連絡して詳細や出典、そして引用の可否について伺おうと思ったのだけど、WEB上をどう探しても連絡の手段がない。どうもこの記事はデッドリンクのようだ。そこで失礼を承知の上で注釈を入れつつ引用させて頂く。
毎日隕石の見物人が来るのを知った田舎芝居の巡業者が、これを見逃すはずはなく、「入場者には星を見せる」と芝居見物客の呼び込み手段の材料にし、発見者(管理人注:小谷政十郎)は隕石を持って、四国九州と芝居巡業者について廻ったという。
しかし好奇心も次第に薄れ、呼び込み効果も挙がらなくなったので、発見者は相談の上、富田村道口上郷ウシヤバラ(現在の池畝)の方の口添えで玉島新樋の赤沢という人に五十円で売却したとのことであった。
その後、隕石の所在を調べるために、玉島新樋の赤沢氏を捜しましたが(管理人注:ここの所、主語は小谷政十郎と思われる)、大正11年頃、九州で亡くなっていたことがわかり、隕石の行方は全く不明でした。
その後、偶然にも中西氏(管理人注:隕石落下地点の土地所有者である中西新三郎)を玉島通町で発見し、話をしたところ、弟宅の「えびす様」を祀っている下においてあるとのことで、偶然にも38年ぶりに発見者の下に戻ってくることになりました。
(「玉島こらむ!たまたま」より)
ここまでの流れを整理してみると、
大正5年4月13日:隕石落下
大正5年~6年:芝居客寄せの材料として全国を旅する。
大正6年:発見者の小谷政十郎が50円で赤沢という人に売却
時期不明:赤沢氏より土地所有者の中西新三郎へ、そしてその末の弟へ
時期不明:再び発見者の小谷政十郎の下へ(?)
昭和28年8月18日:藤井永喜雄氏が現在の所有者を発見する
ということになる。
宇宙の神秘はどこへやら、これじゃあ隕石じゃなくてラグビーのボールだ。
なお、発見者の小谷政十郎氏の下に戻ったという記述には疑問が残った。
落下した隕石は土地所有者(中西家)が所有権を主張する限り、中西家の所有物というのが法的には正しいし、発見者小谷氏がその隕石を売却したのち、本来の所有者の下へ戻っているという経緯から考えても、再び小谷氏の下へ隕石が行くことは考えにくいからだ。
さて、ここまで書いていて当然出てくる謎がある。
「なぜこの隕石が祖父の兄の手元にあったのか?」ということだ。
実は昨年夏に法事で岡山へ行った際、この隕石の話となった。そうしたら節雄さんの末の息子さんが「むかし隕石を父に見せてもらったことがあるんじゃけど、見かけの大きさに対してズシリと重いんじゃ。あれには驚いた」という話をしていた。
(昭和10年頃の祖父万寿夫(左)と節雄さん(右))
祖父の兄...つまり僕にとって大叔父にあたる人は宗澤節雄さんといった。僕自身は昭和45年に富田でお会いしているはずなのだけど、何しろ4歳の子供だったから覚えていない。
この人は戦中戦後の時期に富田村の村長だった人で、その一方で郷土史研究者として貝塚の発見、遺跡や古墳の発掘調査など岡山県の歴史学に多大な貢献をした人だった。
僕の手元には節雄さんの生前の遺稿をまとめた「郷土風土記」という本がある。
(宗澤節雄(甕山)「郷土風土記」-昭和61年(1986年)-)
現在でもWEB上で様々な形で引用されているこの本に、富田隕石に触れた部分がある。
それによれば、昭和28年12月11日に節雄さんの下へ3人の人物が訪れている。節雄さんはこう書いている。
昭和廿八年一二月十一日の私の芳名録には次の様な筆蹟が残されている。
〇星をたづねて星に逢いき 人にも逢いたり 百年の知己のごと
本田実(管理人注:アマチュア天文家、倉敷天文台長)〇本田・藤井両氏の御紹介により隕石富田号について承りに
国立科学博物館 村山定男(管理人注:天文学者、のち五島プラネタリウム館長)〇吾も亦星を訪ねて
藤井永喜雄(管理人注:金光図書館司書、のち岡山天文博物館館長)斯うして一応隕石は東京に持ち帰られた
(宗澤節雄「郷土風土記」)
この文だけを読むと、隕石は節雄さんの手元から東京の国立科学博物館へと旅立ったことになる。さらに「郷土風土記」を読み進むと、こんな一文がある。
其後間もなく隕石は摸作品と共に返されて来たが実物の一部が学術実験用とは申し乍ら所有者の承諾なしになされた不信行為に対し今更に所有者に申訳ない事だと思って居る。
帰って来た隕石は既往のように所在不明の事のなきように、又郷土の物は郷土に置くべきだ、との意味もあってご遺族の了解を許に金光図書館の金庫の中に保管される事になったが昭和五十年十月御遺族の要求あって現在は岡山市青江中西良夫さんの許に帰って居る。
(宗澤節雄「郷土風土記」)
「不信行為」とは、国立科学博物館が成分分析のため、無断でこの隕石の一部(「試片3.2グラム」)を削り取ってしまったことをさし示すのだろう。
「所有者に申訳ない」の部分から、一時的に節雄さんがこの隕石を預かっていたことがわかる。
これは推定の域を出ないが、節雄さんは隕石の所有者を知っていた。それは文脈からみても発見者の小谷政十郎氏ではなく、土地所有者の中西新三郎氏の弟さんだったと思う。
一方で、節雄さんは郷土史研究の関係で金光図書館の藤井永喜雄氏とは旧知の間柄だったと考える。現在でこそ倉敷市と浅口市に別れたが、かつては「浅口郡」という同一の行政区画だった。
さらに金光図書館で蔵書を検索すると、藤井氏はアマチュア天文学者であるとともに、節雄さんと同様、民間信仰の研究もされていたことがわかる。節雄さんと藤井さんに交流がなかったとは考えにくい。
その藤井氏が富田隕石を探していることを知り、即座にその情報を藤井氏に提供した。
「富田隕石が尋ねに尋ねた甲斐あって、ヒョッコリ思わぬ處(ところ)から手に入った」と藤井氏が書いているのはそのせいだろう。
さらに藤井氏は隕石の所在が判明したことを、倉敷天文台長の本田実氏に連絡し、本田氏が国立科学博物館の村田定男氏に連絡した。
そうした話の流れから、3人が研究のために隕石を受け取りに来るにあたって、節雄さんが隕石を預かっていたのだと推定できる。
最後の謎は、祖父は平成元年に寄稿した文で隕石と再会した時期を「数年前」と書いている点だ。
もし帰郷したのが、昭和28年とすれば「数年前」とは書かないだろうし、以降も祖父は度々富田には帰っているわけだから「面白いものがあるから見せてやる」と節雄さんが言うのは、たまたま隕石が家にあったことになる。おそらくこれは昭和50年に金光図書館から中西家に返還された際の出来事だろう。
常に仲介の労をとってきた節雄さんを通して中西家に返還されたのだと考える。
(落下地点へ通じる小道。地元の人も知らないようなマニアックなスポットだった)
現在、富田隕石は所有者のご厚意で倉敷科学センターにおいて公開されている。奇しくも今年は本田実氏の生誕百周年ということで各種イベントも行われているようだ。
(倉敷科学センターWEBサイトより画像を転載させて頂いた)
97年前、少年だった祖父の手に触れた富田隕石にとっては、地球上での旅の方がよっぽど複雑で長かったに違いない。
※1「富田隕石の証明書」
一隕石 壱個 重量(五八五g)百五十七匁五分
右隕石ハ大正五年四月十三日午后壱時頃岡山県浅口郡富田村大字八島字亀山中西新三郎氏所有ナル同所字山ノ谷ト云フ所ノ菊畑地中ニ大音響ヲ発スルト同時ニ火玉ト為リ煙ノ如キ長サ一丈余ノ尾ヲ引キ落下シ、地中約六寸余リ埋リ居リタルヲ小生発見致シ拾得セントシタルニ熱クシテ拾取スルヲ不得、依テ竹ニテ挟ミ池中ニテ洗イ持帰リタル隕石ニ相違無之証明候也
大正六年二月 吉日
岡山県浅口郡富田村八島
土地所有者 中西新三郎?
同県同郡同村大字同所
拾得者 小谷政十郎?
※2「国立科学博物館の研究時期」
「昭和28年夏」国立科学博物館で研究が行われたことになっているが、節雄さんの芳名録の日付や、藤井氏の文章が12月の「天文月報」に掲載されていることからも、富田隕石の研究は昭和28年12月以降に行われた、と考えるのが正しいだろう。
参考文献・サイト
「岡山県気象報告 大正5年(岡山県測候所 編)」
「天文月報 第46巻12号=昭和28年12月号(社団法人 日本天文学会)」
「郷土風土記 昭和61年(宗澤節雄)」
「時事OBクラブ 15年のあゆみ 平成元年(時事通信社)」
「玉島こらむ!たまたま」
「倉敷科学センター公式サイト」
「GoogleおよびWikipedia先生」
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