ヒロシマ -被爆建物(2)- 比治山多門院鐘楼

ヒロシマの記憶,歴史の切れ端

(Winter LiveのDVD製作中は、書き溜めていた記事をどうぞ by spiduction66)

【多門院鐘楼】
●住所:広島市南区比治山町7-10
●爆心地からの距離 1,750m
●建造:昭和9(1934)年9月

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JR広島駅前にあるチンチン電車の停留所で「"多門院"に近い駅は"比治山下"と"比治山橋"のどちらですか?」と駅員さんに尋ねてみた。
駅員さんがポケットマップを広げて調べているところに、横から聞いていたおばあさんがやってきて「多門院なら"比治山下"が近いですよ」と教えてくれた。
「広島の人は親切だ」と聞いていたが、本当にそうだと思った。
広島電鉄のチンチン電車
広島港行きのチンチン電車に揺られて4駅、比治山下駅を降りると目と鼻の先に多門院の鐘楼はあった。
比治山多門院鐘楼
近づいてみると、梁に大きく亀裂が入っている。
原爆の熱線の影響を受けにくい距離にあったことから炎上は免れたが、強烈な爆風の影響でこのようになったようだ。
比治山多門院鐘楼 梁の亀裂
四面に壁がない構造だったことと、昭和20年当時は鐘が金属供出されていたことから、爆風は鐘楼を倒壊させるに至らずに吹き抜けていったようだ。NHK広島のサイト「“ヒロシマ"をさがそうの「多門院鐘楼」のページには、被爆直後の鐘楼の写真がUPされている。これを見ていると、すぐ下の電車道の向こう側までは見渡す限り荒涼とした風景が広がっている。つまりこの手前までの木造家屋はほとんど倒壊したのだから、この鐘楼が現在も存在することはまったく奇跡としかいいようがない。

しかも昭和20年に広島を吹きぬけた猛り狂った風は、原爆の爆風だけではなかった、9月17日には枕崎台風(昭和3大台風のひとつ)が、広島を直撃した。広島県を中心に死者行方不明者あわせて2000人以上(柳田国男は「空白の天気図」で3066名としている)を出したこの台風は、爆風に耐えて市内に現存していた多数の橋を押し流し、ようやく建設がはじまった仮設の住宅する押しつぶしたのだった。

そんな中でもこの鐘楼は耐えた。
比治山多門院鐘楼の天井
現在もなお、天井板は爆風の影響で破損したままとなっている。

被爆直後、多門院は県庁の緊急避難先として「広島県臨時防空本部」となった。
たまたま福山に出張していて無事だった広島県知事の高野源進は、列車と車を乗り継いで夕刻6時30分に多門院へと入った。そして三々五々集まってきた職員らとともに、あらかじめ定められた規定どおりに県内各地への緊急応援要請等の打つ手を打った後はもう、なすすべはなかった。高野はこの日の夜を多門院で過ごした。皆で知事を囲んで多門院の縁側に腰をかけ、誰もが中天の月を眺めて呆然としていた。
「えらいものができたなあ....もう、これでいよいよおしまいだなぁ...」
と知事はつぶやいたという(NHK出版「ヒロシマはどう記録されたか」より)。
高野知事は夫人をこの原爆で失った。
比治山多門院鐘楼の天井
鐘は戦後になって新しいものがつけられた。そこには「no more Hiroshima’s」と刻まれており、毎朝8時15分(原爆が炸裂した時刻)に鳴らされている。

ヒロシマの記憶,歴史の切れ端