昭和17年のスキー
(今回は長いんで、興味のある人だけ読んで下さい)
昭和16年12月8日にはじまった太平洋戦争は日本軍が優勢だった。戦勝ムードに沸き立つ国内では、さほどの緊迫感もないまま昭和17年の正月を迎えた。
そんな中、のんきに長野県でスキー三昧の日々を送っている人物がいた。
僕の祖父だ。
名前を小野寺五一という。愛称は「ごいっつぁん」。
この人が昭和20年に体験した事件については「祖父と湯の花トンネル列車銃撃事件」で紹介したことがある。まぁとにかく膨大な日記を遺してくれた人だ。
(現存するごいっつぁん日記)
41歳だった祖父は昭和17年の正月を長野市で迎えた。
当時、祖父は内務省の地方書記官として長野県庁に勤務していた。
しかし宮城県出身の祖父にとって楽しみというのは、どうもスキーだったようだ。
そのスキー三昧の日々を、見事に日記に記録している。
戦時中の民間人のスキーの記録として、珍しいものではないかと思う。
そんな昭和17年1月の日記を開いてみよう。
(長野電鉄の線路沿いで撮影されたと思われる一枚。祖父と祖母、二人の叔父
2012/3加筆:長野市在住経験のある友人の話では長野電鉄権堂駅-善光寺下駅間ではないかとのこと)
まず1月1日から5日まで上林スキー場へ滑りに行っている。
昭和17年1月2日(金)
(スキーに興じるごいっつぁん)今日も朝から雪が降る。朝から色々準備をし、剣持君九時頃来たので十時十九分にてたつこととし、途中スキー帽、秀之(長男)のスキー等を買い善光寺下から立つ(中略)。
十二時過ぎ、上林青少年宿泊所に着く。その別館の今日初めて使うという縁起よき部屋に入る。南と東の空いている十畳の部屋なり。
ひるにお雑煮を食べ、秀之(長男)と望五荘に行きちょっと挨拶し、秀之をおいてその辺りをすべり廻る。帰って風呂に入り、夕方秀之とまた滑ってくる。
祖父は湯田中温泉のさらに奥にある上林温泉に宿泊したようだ。ニホンザルで有名な地獄谷の入口にある温泉地だ。新築の別館があった「上林青少年宿泊所」が現存するのかどうかわからない。
長野電鉄の善光寺下駅から10時19分の普通電車に乗ったとするならば、終点の湯田中駅には11時30分頃には到着したはずだ。
(湯田中駅は当時の駅舎が現存する)
湯田中温泉から志賀高原へ2.5kmほど進んだところに上林温泉はある。
1月4日の日記を見るとわかるとおり、湯田中からは上林までバスが走っていたのだから、12時過ぎに上林温泉に到着したというのはうなづける。
ちなみに当時のバスは湯田中駅を出発したのち横湯川沿いを進み、和合橋を渡って急坂を上る。そして沓野の集落内にある旧道の方を進んで上林へ向かったのだそうだ。
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(上林温泉付近。そばを流れる角間川の対岸には「角間温泉」というのがある。3年前に「信州角間温泉(山ノ内町)越後屋」という記事にしている。)
この日、本間雅晴中将率いる日本軍がフィリピンの首都マニラを無血占領した。すでにダグラス・マッカーサーはバターン半島へと撤退していた。
祖父はただただスキーを楽しんでいた。
日記続く。
昭和17年1月3日(土)
暖かい太陽の光を浴びながら十二澤まで行く。茶屋に寄りHに牛乳と笹の実餅とみかん等を食べさせてやる。
総務部長夫人がお子さん二人を連れ志賀高原に行かれるのに会う。上林ホテルの裏のスロープにて岩山夫人に会う。スキー研究会の一行に加わって来れる由なり。
秀之と日光を浴びながら練習をやる。午後二時頃より坊の平まで上り茶屋でおしるこ二杯を食べる。帰りもまた旧道の急な坂を降りて来る。
上林には大正10年にオープンした「上林スキー場」があったが、当時のスキー場にはリフトはなかった。「リフト」が登場するのは戦後のことだ(米軍用に志賀高原に作られた)。
また「十二澤」という地名だが、ここにも「十二澤スキー場」というのがあったようだ。
(十二沢スキー場)
ウィキペディア「上林温泉」によると「1913年(大正2年) 上林温泉を訪れていたドイツ人キンメルン夫妻が近所の畑、斜面(上林、十二沢)でスキーをした。」とある。上林から志賀高原方面に国道292号を進んだところにあるループ橋で「十二沢橋」と呼ばれている場所がある。この辺りにスキー場はあったのだろう。
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(「十二沢橋」付近)
祖父たちは志賀高原に至る道(現在の国道293号あるいは旧道)を登ったことが「茶屋」に寄ったことからわかる。茶屋というものは街道沿いにあるからだ。
昭和5年からはじまった長野電鉄の志賀高原リゾート開発によって、すでにこのあたりには長電のバスが通る程度の道ができていた。「若山夫人」が子供連れで歩いても無理はなかったのだろう。その次に出てくる「上林ホテル」は昭和3年にオープンした高級ホテル。今なお「上林ホテル仙壽閣」として営業を続けている。昭和17年に「スキー研究会」があって、このようなツアーをやっていたことにも驚かされる。
午後二時になって、祖父は「十二澤」よりさらに奥へと滑りにゆく。「坊の平」は十二沢からさらに標高300mほど上に位置する高地だ。
(坊の平スキー場・昭和10年頃)
次第に上へ上へと滑りに行くのは、今も昔もかわらない。
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(坊ノ平付近。シラカバ林が広がっている)
日記には「帰りもまた旧道の急な坂」を行ったとある。
国土地理院の地図で調べてみたらたしかに国道293号のショートカットとして「波坂(なめさか)」と呼ばれる細い急坂がある。祖父がこの坂を上っていったことは間違いないだろう。
この坂の途中に中部電力の平穏第一発電所というのがある。大正15年に建設された瀟洒な建物が印象的だ。
この建物は、祖父がこの坂をえっちらほっちら上り下りしてから14年後、画家岡鹿之助によって「雪の発電所」として描かれている。
(岡鹿之助「雪の発電所 – 昭和31年」)
呆れたのが翌1月4日(日)の日記だった。
祖父は「官庁御用始」の式典に出席するため、朝イチで長野市へと戻り、午後になって再び上林に戻っている。
昭和17年1月4日(日)
(当時の装備がよくわかる)御用始めなので、朝六時前に起き風呂に入り、七時の臨時バスへと急ぎで間に合う。自動車と競争する様にして近道を飛び降りる。
八時半善光寺下に着き剣持君に電話をかけ家に帰る。十時より式があるので急いで役所に行く。式では鈴木知事の訓示あり。
十ニ時頃家に帰り、支度ををととのえて(中略)一時五十分の急行にて二時半湯田中に着き、三時過ぎ上林に着く。
あい子(僕の祖母)、秀之を連れスキーに行く。重雄(次男)も一緒なり。留守中、女中さんが恭子(長女=僕の母)に餅を焼いてくれる。
「たとえ1月4日が日曜日でも御用始の式は行う」という当時のお役所のしきたりにも驚いたが、祖父のスキーに対する執念の方が驚きだ。
少しでも滑る時間を増やしたいと、わざわざ急行に乗って湯田中へと戻っている。
ここで僕の母もようやく登場する。当時3歳だった母が女中さんにあやしてもらっている光景は、想像するだけで微笑ましい。
なお、「鈴木知事」は当時の官選長野県知事の鈴木登(みのる)。
大変な人格者だった鈴木は、この数日後に惜しまれつつ広島県の呉市長へと転任し、昭和20年の呉大空襲と広島原爆投下に直面することになる。
昭和17年1月5日(月)
朝七時頃起き風呂に入り七時過ぎ(ママ)スキーをはき坊ノ平にゆき、手前の茶屋でみかん二つしるこ一杯食べる。
四十五銭とは少しぼった様な気がする。帰って御はんを食べる。
あい子は秀之、重雄を連れスキーに行く。その間ゆっくり恭子と二人で風呂に入る。
やがて子供たちが帰り、愛子も帰り、風呂に入っている間、帰宅の準備をし、十二時五十分のバスにて帰る。二時半頃着き、三時頃家に帰り久しぶりに牛肉のご馳走になる。
こうして上林でのスキー日記は終わる。
翌6日から長野県庁に出勤するものの、どうも正月明けの職場はヒマだったようだ。
「十時十五分頃役所に行く」「別に大した用事もなし」「午後も別に用もなく四時過ぎ家に帰る」なんてミもフタもないことを日記に書いている。
当時の祖父は官房主事、税務、庶務課長などを兼任していたようだが、この日の祖父が唯一仕事らしい仕事を記録しているのは、次の一文だけだ。
「部長の奥さん、志賀高原ホテルにて色々な行き違いがあって好遇(ママ)せられなかった由なので、下平君に注意を促す」。
おいおい。
祖父の忙しさは翌日から始まる。
前述したように長野県知事鈴木登が呉の市長に転任し、後任に香川県知事の永安百治の着任することが決定する(当時は現在と違って官選)。
その引き継ぎ準備のため香川県と東京へ出張している。
そして1月16日は新知事永安百治の着任日だった....にもかかわらず、この日の祖父は、出勤前にひと滑りしに行っている。
昭和17年1月16日(金)
朝起きてみると、雪が降っている。よしとばかりスキーに行く。水道山を通り七曲に行き一気に降りてくる。
(中略)十一時五分の新知事着任の汽車、一時間おくれて着く。(中略)三時頃新知事の挨拶あり。風邪の気あり六時頃帰り早く床に入る。
「よくやるよ」と思った。
そりゃあ風邪気味にもなるだろう。
祖父の家、水道山、七曲.....これらの場所が特定できなかった頃に、長野市出身の友人に尋ねたことがある。
「出勤前に善光寺前から七曲という場所まで歩いて行って、スキーで滑ってきたという記録があるのですが、そんなことは可能なんでしょうか?」
そうしたら、その方は「できないことはないでしょうけど...普通はやらないでしょうね」と苦笑していた。
当時の祖父が住んでいた正確な場所は不明だ。だが善光寺の西側に公務員宿舎が町の半分を占めている花咲町という町があるらしい。おそらくここではないかと思っている。
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(花咲町は公務員宿舎だらけ)
調べてみたら「七曲」という場所もわかった。
今でも地元民には有名なワインディング・ロードで、走り屋にとっては「聖地」らしい。
当時のスキーヤーにとっても「聖地」だったのだろう。
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(「七曲」。本当にうねうねしている)
「水道山」という地名は現存していないが、この2点の間に「往生地浄水場」というのがある。大正4年に完成した浄水場だというのだから、おそらく「水道山」というのはこの付近を指す通称なのだろう。
花咲町から七曲(坂の上まで)までおよそ2.5km。距離的には近いがかなりの標高差がある。「よくやるよ」しかいいようがない。
祖父の野良スキーはさらに続く。
1月18日(日)は同僚と日帰りで「飯縄」へ滑りに行っている。
昭和17年1月18日(日)
(戦後もスキーに興じるごいっつぁん=一番左)
朝八時、女学校前に集合し、飯縄にスキーに行くことにしたる故、八時過ぎに行きしも野中君見えず。已むなく一人でゆく。
途中、偶然にも野中君に会う。荒安のだんごやで休んでおしるこを二杯食べてゆく。
会計課長の一行に会う。飯縄の茶屋で休みしるこを食べ、その辺りで滑り、二時降りて来る。
約一時間にて降りる。甚だ愉快なり。
この日記から、祖父は「七曲」よりさらに「上へ」と滑りに行ったことがわかった。
「女学校」というのは長野県長野高等女学校のことで現在の長野西高等学校だ。これは祖父の家から七曲に行く一番のショートカットだ。
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(「女学校前」=長野西高等学校校門付近)
ここから御嶽山神社への坂道を登り、さらに七曲を登ると「荒安」という集落がある。ここで祖父は「野中君」とおしるこを二杯食べた。
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(荒安)
ここから「飯縄(あるいは飯綱)」までは比較的なだらかな山道が続いている。
祖父たちは現在の戸隠バードラインにほぼ平行したルートを辿っていったのだろう。
帰りはいま歩いてきたルートを一気に市内まで滑りおりていったようだ。
10kmのルートを1時間かけて滑りおりてゆく。
「はなはだ愉快」なのもわかる。
1月25日(日)にもスキーにゆくつもりだったが「少しくつかれているのとねむいので」断念している。そして翌日にはご丁寧にも「昨日スキーにゆかなかったことが残念である」と日記に記している。
そして1月29日には再び出勤前に七曲まで滑りに行っている。
昭和17年1月29日(金)
朝六時半頃起床し、スキーをかつぎ七曲に行く。昨夜雪がさっと降ったので大変よき雪なり。
上りながらしばし足を止め清祥なる景色を眺む。とかくする中に太陽がさしてくる。ああ美しきかな。心地よきかな。
上の方でがやがや人声がしたと思うと中学生の列がスキーで元気に降りて来る。心地よきなり。
家に帰り水をかぶり紅茶を飲み役所に行く。
翌1月30日、祖父は県庁の食堂で新知事の永安百治(翌年1月に急逝する)から呼び止められた。用件は貴族院書記官への異動の内示だった。
祖父はこの異動を嫌がった。
「考えさせてくれ」と返事をし、直属の上司に対して「断念したき旨」を伝えてもいる。
「斎場のようなところに行くな」とある部長から言われているように、議院書記官は儀典式典色プンプンの職場だったようだ。
宮城県の鄙びた田舎出身の「ごいっつぁん」にとっては、現場主義的な地方まわりの役人の方が性に合っていたことは想像に難くない。
スキー三昧の日々も楽しかったに違いない。お役所業務の日々から解放される数少ない手段がスキーだったのだろう。
その点、ドライブで「ひたすら道を走る」ことが好きな僕にもその血があるのかもしれない。
結局のところ、異動に応じた祖父は、否応なしに歴史の回転軸に巻き込まれていった。
赴任直後に本土初空襲に遭遇した祖父は、戦局が悪化する中を東京にとどまり、丹念に空襲警報と戦局への不安を日記に記録し続けている。
そして、昭和20年には自らが米軍艦載機の銃撃を受け、九死に一生を得ることになる。
ディスカッション
コメント一覧
うひゃぁ、スキー熱もすごいけど、日記もすごいです!
マメな方だったんですねー。
>しょーちゃん
祖父は平気で3日坊主をやる人でしたよ(笑)
日記にはどうもコツがあるようで、
「事実関係だけを淡々と書く」
「何もなければ何も書かない」
「半年ブランクができてもも再び書き始める」
のようです。