山寺立石寺

ぶうらぶら

「僕が旅に出る理由はだいたい百個くらいあって...」

くるりの「ハイウェイ」はこんな歌詞ではじまる。

たしかに旅に出る理由を並べればいくらでもありそうだ。
だけどそんな理由のひとつひとつなんてとても稀薄なもので、本当は理由らしい理由など何ひとつない。
とどのつまり、人間は行きたいと思った場所へフラリと行っているだけなんだと思う。

僕が中学3年生の時、国語の教科書にこんな写真が掲載されていた。

(当時切り取ってアルバムに貼り付けていた)

松尾芭蕉の「奥の細道」の解説に挿入されていたものだった。
山形の「山寺立石寺」というお寺で、ここであの有名な俳句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が詠まれたことが説明されていた。

この一枚の写真には、旅心をそそる魔力みたいなものがあった。
僕は無性にこの場所へ行きたくなった。

中学3年生といえば受験勉強の真っ最中だ。
かといって勉強をするわけでもなく、しないわけでもなく、なんとはなしに日々を送っていた。
ただ得体の知れない何かに縛り付けられていた。
僕はこの写真を何度も見入っては、
「よし、受験が終わったらこの場所へ行ってやろう」と思っていた。

1981年の春休み、受験勉強を終えた僕は友人のA君と共に夜行列車で東北へと向かった。
平泉、松島を廻り、仙台では曾祖母とも会った。
そして最終日にまる一日をかけて山寺へ向かった。

当然のことながら3月の山寺は雪に埋もれていた。
麓の土産物屋のおばちゃんが長靴を貸してくれて、千段にもなる石段を登っていった。
当然蝉など鳴いていないわけだから教科書のあの写真が醸し出す風情などなかった。
だけど「ここへ来たかった」という想いを達成できた満足感から、写真と全く同じアングルから一枚撮影している。

(1981年3月 雪に埋もれた山寺立石寺)

これは「子供」だけで行った3度目の旅だった。
あれからどれだけ旅をしたかわからないけど、32年目の夏に再び山寺を訪れてみることにした。

8月14日ということもあってか山寺はなかなかの混雑だった。人ごみの流れに乗ってえっちらほっちらと石段を登ってゆく。
あの写真を撮影した場所はどこだったっけなと思いつつ登ってゆくと、意外とあっさり同じ場所に出くわした。

(2012年8月 夏の山寺立石寺)

32年ぶりにここに来たんだなぁ的な感慨はなかった。
芭蕉の「閑さや」的な感傷もなかった。
まあとにかく人の多いこと多いこと。まだ誰も居なかった32年前の方が風情があったというものだ。
もちろん自分もその混雑の原因だということは棚に上げてのもの言いだ。

芭蕉は...とここで文学的な解説をしてみるけど、芭蕉と同行の曾良はこの寺を元禄2年(1689)年の7月13日(旧暦5月27日)に訪れている。
彼らが尾花沢から30km近い道のりを歩いてここを訪れた時はすでに夕刻だった。日こそ暮れていないものの山上の堂塔はすでに扉を閉めていた。
そうした中であの句は詠まれている。元禄2年のある夏の夕刻、その時の山寺の空気を芭蕉は見事に切り取っている。

この感覚って音楽にもあるある。
多重録音が行われる以前、一発録りをやっていた1960年代以前のレコードを聞いている時に感じるものと一緒だ。
The Beatlesの「Love Me Do」には1962年9月4日(もうすぐ50年!)のアビーロード・スタジオの空気が切り取られているし、二村定一の「あほ空」には昭和3年3月19日のコロムビア・スタジオの空気が切り取られている。芭蕉はそれを5・7・5の17文字で表現しているのだから大したものだと感心する。

実はそんなことでも考えながら登らないと、千段の石段などとても体がもたないのだ。
まだ午前中の登りだからいいものの、これが午後だったら完全にアウトだったろう。

ようやく山上にたどり着くと体はヘトヘトだった。それでも展望台からの眺めは素晴らしかった。
眼下に街並みと駅舎が見下せた。山間のこじんまりとした門前町だ。
ここから当分動きたくないと、ずいぶん長い間涼んでいた。

さて、帰宅してから32年前に山寺へ行った時のアルバムを開いてみたら、こんな写真が出てきた。

(1981年の山寺門前町)
街並みもさほど変わっていないけど、似たような撮り方に自分自身も今も昔も変わっていないことがわかった。

アルバムを見ながらカミさんにこんな話をした。
「〇〇(長女の名前)も高一になったのだから、一人で旅行させてもいいんじゃないかな?」
そうしたらカミさんは、
「〇〇は女の子よ。それに今は時代が違うからまだ一人旅は危険よ」と一蹴された。

あやつが女の子であろうと時代が違おうと、旅に出る理由が百個ぐらいあるのは今も昔も変わらないはずなんだけどなぁと、そんなことを思った。

ぶうらぶら