少年朝日年鑑に掲載された「道」の40年後をたどってみた -秩父から中津川林道へ-
コトの発端は実家の物置小屋で、この本を発見したことだった。
(少年朝日年鑑’77)
『少年朝日年鑑』は、小学校高学年~中学生向けの年鑑誌だ。
奥付をみると77年版は昭和51(1976)年9月20日発行...今からちょうど40年前に発行されたことがわかる。
(77年版の奥付)
この一年の時事的な問題を幅広く扱っていて「インフレはおさまるか」「環境破壊」「ストライキ権と労働組合の動き」「部落差別とのたたかい」「自衛権をめぐって」「かねで政治がゆがんだ(ロッキード事件)」「原子力発電を考える」....今になって読んでみるとなかなか面白い。
ただしそれは今だから言える話だ。小学校5年生だった僕は巻頭グラビア特集以外、マトモに読んだという記憶がない。
そんな77年版の巻頭グラビアは「道」がテーマだった。道が持つ様々な表情...生活の中の道、自動車のための道、政治が作った道、あぜ道、獣道、踏み分け道、石畳の道、坂道、石段、五街道...そんな様々な道を紹介していた。
今から思うとすでにこの頃から「道路マニア」だったのだと思う。当時この特集にハマった自分を思い出す。40年ぶりにこの特集を読んで、自分の原点を見る思いがした。
そんな中で印象に残っていたのが「村から都会へ」という記事。
山中の杣道から、大都会の国道へと至る道、その風景の移りゆく姿をグラビアで紹介したものだった。
このモデルとして使われたのが「中津川林道」「秩父往還」と言われる道だった。
埼玉県と長野県との県境は「三国峠」を越える一本の道で結ばれている。
この道、「秩父市道大滝幹線17号線」というのが正式名称だけど、いまだに旧称「中津川林道」で親しまれている。
中津川林道そのものは埼玉県秩父市と長野県南佐久郡川上村とを結んでいるけど、「三国峠」という名称が示す通り、峠の真北では群馬県多野郡上野村とも接している。日航123便が墜落した御巣鷹の尾根は峠から直線距離で北西に2kmの位置になる。
ちょうど40年が経った今、当時の「道」はどうなっているんだろう?
そんな素朴な疑問、「いつか中津川林道を走破してみたい」という夢、そして久しぶりのお天気日和が、衝動的に旅に出る理由となった。
撮影場所が特定できたのは5か所、都内は省略し、秩父市内から逆に辿ってみた。
【写真1 秩父市の繁華街】
『年鑑』のキャプションはこうだ。
人口約6万人の秩父市の繁華街。銀行のかわりに信用金庫の看板があったり、どうも何となくいなかっぽい感じがします。道は正丸峠へ。『少年朝日年鑑』
「いなかっぽい」とは何とも大変な言われようだけど、その信用金庫の看板と道路の標識によって当時の撮影ポイントが特定できた。
埼玉縣信用金庫秩父支店が現在も同一地点にあったからだ。『年鑑』の画像は埼玉県秩父市の本町交差点を百メートルほど南西側(みふねおもちゃ店付近)から撮影したということがわかった。
(1976年ごろの秩父の繁華街)
(40年後の同地点)
驚くほど変貌を遂げてしまっているのがわかる。
1976年の画像には、典型的な地方都市の繁華街という風情がある。商家が立ち並び、色とりどりの看板がいささかうるさそうに並んでいる。こういう風景って1990年頃までは残っていた。都市にバイパスが完成すると交通の中心はそちらへと移動する。バイパス沿いに全国チェーンの画一的な店が立ち並ぶと「全国どこへ行っても同じ街並み」となる。一方こうした町の中心の繁華街は寂れて「シャッター通り」となってしまう。「シャッター通り」ならばまだいい。この本町通りがまさにそうなのだが、ずいぶん空地が増えて駐車場になっている。
それでもしっかり商売を続けている老舗もある。
(みふねおもちゃ店看板)
(現在のみふねおもちゃ店 Google Street Vewより)
当時の画像を見せた時「あっ、ウチの看板が写ってますね」と教えてくれたのは、こちらの店主のおばちゃんだった。
建物も現存していた。この道、歴史的には「秩父往還」と呼ばれた街道で、明治になっても絹の流通路として栄えたところだった。所々に当時を思わせる古い家々が残されているのだけど、これもそんな建物のひとつだ。
現在、この本町付近は景観条例規制の重点地区ということもあって「いささかうるさそうな看板」も見当たらない。電柱の「武甲山(地場のお酒か?)」という看板も例外ではなかったようだ。
1976年の画像で画像左端に圧迫するように建っている3階建てのビルは埼玉縣信用金庫秩父支店。
一階に「ボーナスは〇〇〇へ」という荒っぽい手書きの看板があるところが、いかにも信金っぽい。
この秩父支店、現在は道路に対して奥まった場所に建て直され、周囲の景観と調和した建物となっている。
(Google Street Vewより)
40年後の2016年9月現在、秩父市の総人口は64,757人(市サイト)、ただしこれは2005年の合併(旧秩父市・吉田町・荒川村・大滝村)以降の人口だ。現実には秩父市(現市域)は人口の減少に悩まされていることが『統計メモ帳』サイトでわかる。
【写真2 大滝村役場前】
(大滝村の役場前 1976年頃)
(40年後の同地点 -逆光でうまく撮れなくてすいません)
大滝村の役場前。はじめての信号。大滝村の人口は1970年4791人→75年3244人と、この5年間に32%もへりました。山がちの地形のため産業は林業しかないこと。大きな吸引力を持つ東京に近いこと、この2つが人口減少の大きな理由だそうです。ただ、中津川の南の集落・栃本では、逆に自然を呼び物に民宿が盛んで、大きな産業です。『少年朝日年鑑』
40年前の写真に写っている「たこ八郎」みたいな髪型の子供、今でもこんな雰囲気なんだろうな(笑)
秩父市街から荒川沿いに国道140号を上流へと進むこと一時間、第二の撮影ポイントに到着した。「大滝村役場(現 秩父市大滝総合支所)」がそれだ。
このような山奥の役場には似つかわしい立派な建物だ。当時は時代の最先端をゆくモダンな村役場だったことだろう。竣工は1963(昭和38)年だという。
当時、日本の林業は最盛期をやや越えた所にいたが、そうした時代の村の勢いが感じられる建物ではある。
翌1964年、木材の輸入自由化に伴い、日本の林業は一気に衰退していった。
その後も大滝村の人口減少は続いた。2002年時点で1,533人(Wikiによる)、2005年に秩父市となってからも減少は続き、現在「大滝総合支所」管内の人口数は797人だという。案内看板の「大滝中学校」も2015年で閉校となっている。
最近、たまたま「上高地乗鞍スーパー林道と廃屋」という記事を書いたばかり。なんか似たような記事になっている。こうやって現状を見ていると本当に国の政策って場当たり的だと思う。
(モノクロページの一部)
【写真3 出合バス停】
(大滝村出合バス停 1976年頃)
(出合バス停 2016年)
中津川からのバスは、奥へ行くのと役場行きと一日に一本ずつ(写真では平日用と休日用がいっしょに写っている)。バスも小型バス。これではバイクや自動車を持たないと、生活がとても不便です。過疎→客がへる→バスの回数がへる→車を買う→客がへる→バスがへる、という悪循環が生じ、過疎化がすすみます。『少年朝日年鑑』
第三の撮影ポイントは旧大滝村役場からさらに山奥へ一時間進んだ「出合」というバス停。国道140号バイパスから県道210号へと進み、無駄に立派なトンネルで整備されまくりの道(対向車はほぼいなかった)を20分ほど進んだ所にあった。中津川林道はここが起点となる。
(滝沢ダム付近)
この区間だけは上のマップのように当時と大きく様相が変わっている。滝沢ダムの完成によって新しく国道140号のパイパスが完成し「出合」方面へのアプローチはずっと容易になっているからだ。40年前、記者さんが通った道はすでにダム湖の底になっている。
ここを右折して謎めいた形のトンネルをくぐれば秩父鉱山(日窒鉱山=ニッチツ鉱山)へと続く道。だから「出合」。ただここには人家もなければ人っ子ひとりいない。なぜこんな所にバス停があるのかが謎だった。
もう一つ謎なのは、40年前よりもバスの本数や行き先が増えていること。
ちなみにニッチツ鉱山は「廃墟マニア」にとって聖地のような場所なんだそうだ。だけど今回はそこへ行くことが目的ではない。ていうか、すでに時計は16時前を指していた。中津川林道の夜間閉鎖区間はここより10km先、しかも17時で閉鎖されると聞いている。どうも手前で時間を取り過ぎたようだ。「こりゃあ、林道を通るのは難しいかもしれないな」と内心思う。
【写真4 中津川の集落】
(中津川の集落 1976年頃)
(40年後の同地点)
中津川の集落。ここでお昼の交通量を調べました。30分間に通ったのは、消防団の人が2人、犬が1匹、車は? ゼロ。そのためでしょう。この雑貨屋の前は子どもの遊び場みたいになっていました。『少年朝日年鑑』
出合バス停からここまで10分足らず。中津川の集落に到着した。ここは埼玉で最も真西の集落ではないかと思う。
それにしても40年前に記者さんは素敵な写真を撮影している。路上で野球をやる男の子たち、それを眺めている女の子たちは突然現れた記者さんに興味深々だ。
ここに写っている9人の子供たち、きっと僕と世代的には一緒ぐらいなんだろうな。
内心、この中津川集落でこの子供たちに会えるんじゃないかと期待していた。
通りすがりの誰かにこの写真を見せれば「ああ、〇〇さんとこの息子じゃねえか」「あっ、こりゃあ俺だ」という具合に。
ところが写真撮影中に通ったのは、人間ゼロ、車ゼロ、子猫が2匹、雑貨屋(多分廃業している)の玄関で声をかけても誰も出てはこなかった。
【写真5 終点:中津川林道料金所】
(中津川林道料金所 1976年頃)
(40年後の同地点)
中津川林道の料金所。営林署が切り出した材木を運んだりするために作った道で、普通の車は有料です。三国峠まで18Km。前の日に通った自動車は10台。『少年朝日年鑑』
料金所の前に立つおばちゃん、自転車での通りがかりに中の料金収受員と世間話でもしているのだろうか?
収受員は隣接した日本家屋(営林署の官舎?)に住んでいるのかもしれない。昭和日本ののどかな風景だ。
中津川の集落からこれまた10分足らず「彩の国ふれあいの森 埼玉県森林科学館」なるハコモノご立派な建物の先に料金所跡があった。道のカーブ具合がそのまんまとか言う以前に驚いたのが、当時の日本家屋がまだ現存していたことだった。
(料金所跡の日本家屋)
もうひとつ驚いたのがこれだ。
(中津川林道料金所のゲートの支柱 1977年)
(現存する支柱 2016年)
ここから先、道は未舗装となり、いよいよ中津川林道となるわけだが、林道入口にこんな看板があった。
なに、通行止?
(秩父市からの「お知らせ」を画像にしてみた)
中津川林道は、今いる「ふれあいの森」から6.1km先の「信濃沢橋」から先は夜間(17時?翌朝8時)閉鎖となってしまう。
ところがそれ以前の問題として(ここから3.3km先の)「王冠キャンプ場」から先が何等かの事情で完全通行止めになっていたというわけだ。
すでに時計は16時30分を指していたので、今から突入するのはいくら何でも無茶だろうとは思っていた。
だから残念な気持ちと共に「通行止めなら諦めがつくな」という安堵の気持ちが自分の中では入り交ざっていた。
せっかくここまで来たのだから、さらに車を進めてみる。
まず目に入ってきたのが、この家屋群。
集落というよりは営林署の官舎ではないかと思った。建物の大半は廃屋となっているようだ。
さらに進むと、否応なしにこの看板が目に入った。
「村道中津川線(17号線)県道昇格早期実現」とある。村道と表記されているということは、この看板は2005年以前(大滝村時代)に作られたものだということがわかる。
この看板から先、道は未舗装となる。
ほどなくして道路脇に石碑を見つけた。
「国土開発受難者の碑」とある。
昭和三十四年度実行
中津川林道新設工事事故者名
和田正利 三十六才 福井県丹生郡朝日町下糸生
林留五郎 五十三才 新潟県南魚沼郡六日町五十沢
地方を離れて出稼ぎに来たのだろうか。こんな山奥で犠牲となったことが痛ましい。
「国土開発受難」か....戦後わずか14年、お国の為に犠牲となったという事が、まだ美徳とされていた時代なんだろう。
石碑から二つ目のトンネル(多分)の大岩隧道。最初のトンネルもそうだったけど、中は素掘りで中々迫力があった。
さてこの道、秩父市のサイトに「市道大滝幹線17号線(旧中津川林道)の通行止め」と、しっかりお知らせされていた。「8月22日(月曜日)の台風9号および8月29日(月曜日)の台風10号の大雨の影響を受け法面の崩落や複数箇所の土砂流出等が確認され、道路状況が悪化、通行が出来ない状況となりました」とのこと。
リンク先の画像をみると、想像以上に大変な被害状況になっていることがわかった。
この道もまた、乗鞍スーパー林道のC区間(橋の流出と土砂崩れによって2003年以来閉鎖)と同じ運命を辿るんじゃないかと、そんな不安が頭をよぎった。
僕もこのあたりで引き返すことにする。ここは自分ごときが気安く立ち入れる道ではなさそうだ。
今回の旅はここでおしまい。
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