記憶の彼方のドリス・デイ

管理人のたわごと

僕の母は、今ではすっかり子供になってしまった。「老人は子供に帰る」と言われるけれど、本当にそうだ。

諸般の事情から、夜遅く父が帰るまで、母の面倒をみなければならなくなった。夕方から実家に行った。

母には僕が誰かわからないけど「いつも来る親切な人」という認識はあるようだ。時にそれは「母」としての表情となる。一緒にいると食べきれないぐらいのお菓子を出してくる。あとはニコニコ笑いながらテレビをみている。

父が適当に録りだめていたレコーダーが一杯になっていたので、整理していたら、ヒッチコックの映画「知りすぎた男(The Man Who Knew Too Much)」が録画されていた。 13日に97歳で亡くなったドリス・デイ(歌手・女優)が出演している映画だ。

母は昔から映画と音楽が好きだった。子供の頃、テレビで放映されるたびに「面白いから一緒に見よう」と薦めてきた。 我々子供はそういう空気というか文化の中で育ち、やがて自分の価値観を作り出して巣立っていった。

これもそんなひとつだった。子供を誘拐された母親として、夫のジェームズ・スチュアートと共に機転を利かせながら問題を解決してゆく。日本では彼女の代表作となった「ケ・セラ・セラ」を歌うシーンもある。

驚いたことに、映画の冒頭に「VISTA VISION」と出てくるのだけど、そこで母が「ビスタ」と呟いた。えっ、まだ英語読めるのか?

それではと冒頭タイトルを静止させて「これ読める?」と尋ねたら「マン…フー…マッチ」と3つの単語を読んだ。これには驚いた。

にもかかわらず、彼女には何の映画かはわからない。「ドリス・デイが亡くなったんですよ」と母に伝えても、もう分からない。きょとんとした顔….まるで子供のような顔つきでこちらを見るばかりだ。

だいたいね。僕はあなたが大事にしていた昭和35年のレコードを今でも持っているんですよ。これでドリス・デイを知ったようなものです。

思い出のL盤ヒット・パレード [1960]
ジャケ裏側

ついでにいえば、彼女はThe Byrdsのプロデューサーだったテリー・メルチャーの母親である。昔この事は「ロマン・ポランスキーとシャロン・テートとチャールズ・マンソンとスーザン・アトキンスとテリー・メルチャーとビーチ・ボーイズとビートルズと....」という記事にチラっと書いたことがある。

駅で家内と合流し、3人で食事をする。父が帰ってくるまでの1時間ちょっとある。母はとにかく車に乗っているのが好きなのでぶらぶら走るとする。今日はドリス・デイを聞きながら行くとしよう。

「Sentimental Joueney」はLes Brown & His Orchestra名義、バンドの専属歌手だったDoris Dayを一躍有名にした作品。太平洋戦争中の1944年11月20日録音、翌1945年1月22日にリリースされ、23週にわたってビルボードにチャートインする大ヒットとなった(最高位1位)。日本でも進駐軍放送(WVTR)で頻繁に流されていたという。僕は戦後初のヒットとなった洋楽だと長年信じてきたけど、日本発売されたのは1949年の11月だったらしい(上記アルバムの解説)
「A Guy Is A Guy」は1952年2月7日録音。日本では1953年2月に江利チエミがシングルとしてリリース、翌年には雪村いづみが映画「娘十六ジャズ祭り」で丹下キヨ子と歌っている。
「Secret Love」は1953年8月5日録音。映画「Calamity Jane(カラミティ・ジェーン)」の主題歌として第26回アカデミー賞歌曲賞を受賞している。
「Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be)」は彼女の代表曲となった。1956年2月22日録音。この曲で彼女は再びアカデミー賞歌曲賞を受賞する(第29回)。
「Teacher’s Pet(先生のお気に入り)」は1958年1月6日発売。彼女が先生役で出演した同名映画の主題歌。ちなみに生徒は「風と共に去りぬ」のクラーク・ゲーブルでした。
そして、アメリカ人にとって忘れられない瞬間にも、彼女の歌声があった。 1963年11月22日12時36分頃にABCラジオはDoris Dayの「Hooray for Hollywood」をオンエアしていた。次の瞬間に入った臨時ニュースは「ケネディ大統領が乗った車に3発の銃弾が撃ち込まれた」という(漠然ながら)事件の第一報を全米に伝える事になった。

音の記憶ぐらい強力なものはない。1年前には会話が成り立たなくても、昔の音楽を聞けば楽しそうに口ずさんでくれた母だったが、後部座席に座る今日の母はただただ流れる夜景をみていた。

「ちらりと見えた瞬間には、もう見えなくなった(中略)俺にはその女の顔が如菩薩のように見えた(中略)俺は男を殺してでも女を奪おうと思った」(映画「羅生門」より多襄丸のセリフ)

帰宅したら京マチ子の訃報も入ってきた。なんという日なんだろう。
子供の頃、テレビで放映されていた「羅生門」をすすめてきたのも母だったな。
とても子供に見せるような映画じゃない。だけど、母は色々な所にアンテナを張り、それを節操なく子供たちに伝えてきた。

一番それに影響を受けたのは3人兄弟の中では自分だと思う。結局、黒澤映画にハマることになったし、古いモノも新しいモノでも見たり聞いたりするようになった。そこは感謝しているし、おかげで人生を間違えたのかもしれないけどね。

自分から色々と誘っておきながら、当の本人はすっかり忘れてしまったようだ。今は子供のように無邪気になって、ずっとニコニコしている。それはなにかコントのようにも思える。まったく世話がない。