平成の終わりに城崎にて

ぶうらぶら,歴史の切れ端,管理人のたわごと

泉鏡花の随筆「城崎を憶ふ」はこんな出だしで始まる。

雨が、さつと降出した、停車場へ着いた時で──天象は卯の花くだしである。敢て字義に拘泥する次第ではないが、雨は其の花を亂したやうに、夕暮に白かつた。やゝ大粒に見えるのを、もし掌にうけたら、冷く、そして、ぼつと暖に消えたであらう。(泉鏡花「城崎を憶う」大正15年)

ううむ、かなり何を言っているのかわからない。

「卯の花くだし」を調べてみた。すると「卯の花を腐らすほどの長雨」とあった。すなわち五月雨の事なんだそうだ。

「字義に拘るつもりはない」と言いつつ、続く鏡花の言葉はとても難解だ。だけど言葉の一つ一つが宝石箱をひっくり返したかの様に美しい。
彼の言葉が生み出す空気みたいなものを楽しんでいる。そんな作家は滅多にいるもんじゃない。

鏡花がすず夫人や画家の小村雪岱らを伴って城崎温泉を訪れたのは大正13年(1924年)5月の事だった。

彼はこの地で、按摩の吹く奇異な笛の音に恐怖を感じ、廃屋の庭に咲く一輪の菖蒲の紫色に美しさを感じ、大渓川で洗濯をする女性に見惚れた瞬間、川岸の石を踏み外して川に落ちかけ、やたら吠え立ててくる野良犬の多さに驚いている。

その一年後、「月は同じ月、日はたゞ前後して、──谿川に倒れかゝつたのも殆ど同じ時刻である」、大正14年(1925年)5月23日、「北但馬地震」によって城崎温泉に大火が発生し、街全てが灰燼に帰した。

──今は、柳も芽んだであらう──城崎よ。

鏡花の「城崎を憶う」は、彼の鋭敏な感性で感じた城崎の全てに想いを馳せ、その復活を祈りながら終わる。

鏡花がここを訪れてから95年という歳月が過ぎた。

城崎は不死鳥の様に復活し、今では関西を代表する温泉地となった。時の流れは大正から昭和へ、昭和から平成へ、そして平成も今日で終わろうとしている。

そして、鏡花が散りばめた言葉の宝石の数々も、時の流れの中で大変難解なものとなってしまった。

そんな時間の流れの中、たまたま平成時代最後の今日、自分は城崎温泉にいる。

京都の義母を連れての小さな旅だけど、ここ数ヶ月間、喧騒の日々を駆け抜けた自分や家族への慰労の意味もあった

ここに泊まるのは31年ぶりだ。大学サークルの京都での合宿を終えた後、友人3人と「天橋立へ行こう」という事になり、ここへ来たんだ。

それはほとんど思いつきに近かったと思う。

ところが、城崎温泉に一泊した後、「じゃあ俺はここで。ちょっと金沢に行ってきます」と友人達と別れて一人敦賀行きの電車に飛び乗った。

もちろんこれも思いつきだった。鏡花にハマっていた僕は、ふと彼の出身地である金沢に行ってみたくなったのだ。

後で友人達は「城崎で捨てられた」と思ったらしい。

自由で無責任な35年前の自分に反省しています。ハイ。

城崎は外湯めぐりにこそ価値がある。鏡花の時代には内湯などなかったし、今でも外湯の方が遥かにスケールが大きい。

今日はあいにくの雨だけど、僕は雨の露天風呂をこよなく愛するので、これは嬉しい。

露天風呂に浸かりながら、闇空から降り注いで来る雨を浴びて、こんな気持ちとなる。

「俺はこの瞬間のために働いて来たんだなぁ」

お約束の感慨だ。

この感慨があるからこそ明日も生きる事ができる。今日もそう思っているし、明日もそう思って生きて行きたい。

そして、ふと思った。もしかしたら自分はこの瞬間のために平成時代を生きて来たんじゃないかと。

雨粒を手に受けながら、鏡花の一文を思い出す。

「やゝ大粒に見えるのを、もし掌にうけたら、冷く、そして、ぼつと暖に消えたであらう。」

鏡花の「雨粒」が「時の流れ」を意味しているように思えてならない。