なるようにしかならんだろ、こんなもん
新型コロナウイルスによって、日本は何がなんだかよくわからない状況になっている。
品不足、産業の衰退、自粛ムードの圧力、休校問題、世代間の憎悪と対立、国家間の対立、島国が潜在的に抱えていたありとあらゆる事が、コロナという「黒船」によって、一気に噴出しているのだと思っている。
こんな中で「A」という意見を言えば「B」という意見が拮抗するだろう。安部総理の休校指示ひとつとっても「エビデンスのないままの宣言」という非難的意見もあれば「こうした場合は強硬手段こそ是である」という意見もある。何が正解で何が正解でないのかなんて事は、あと数カ月ぐらい経たないと答は出ないだろう。いや出ないのかもしれないよ。そもそも効果測定が困難で、我田引水なデータの応酬になるに決まっているからだ。
自分が思っているという事はただひとつ。
感染したら「運が悪かった」と諦めるしかないということ。それに尽きる。
自分だけが感染しないと思っているのではない。無差別に放たれるサジタリウスの矢に自分だって当たる恐れがあるのだという覚悟だ。
3月6日時点の感染者数をコチラのサイトで確認する限りでは416人。国内人口の比率からいえば0.0003%だから100万人に3人ということになる。実際の感染者数が10倍だとしても、譬えとしてどうかと思うが宝くじに当たったような確率だ。もはやこれは運でしかない。
運といえば、昨日蒲郡で感染した50代男性が「ウイルスをまく」と言って外出して飲食店に寄った事件が報道されていた。酔っ払って蒲郡駅前で「コロナウイルスばら撒くぞ」と叫んでいたという情報もある。思うに彼は人生の中で何度も悲運な目に遭っていたのかもしれない。バブルの崩壊で会社が倒産、ようやく就職した会社もまた….そうした悲運が積もりに積もった所で今回の感染となり、自暴自棄になったのかもしれない。
自分は感染防止には極力気を使ってはいるが、それは0.0003%の感染確率を0.00025%に下げているに過ぎないと思っている。蒲郡のおじさんが同一のクラスターに参加したらそこでアウトだし、中にはコロナに感染した事をひた隠しにして、街を出歩いている人だっているかもしれない。こんなの不意打ちなんだからどうしようもない。
アクセルとブレーキを踏み間違えて暴走する車の方が怖いかもしれない。車に3度轢かれた経験のある「運の悪い」私がそう申しております。
いま、ライブハウスや様々なイベントが自粛と中止の嵐に晒されている。弱いものいじめのように、得体の知れない監視の目が圧力をかけまくっている。そんな中で、知り合いのミュージシャンたち、多くが仕事がキャンセルとなり途方に暮れている。何か助けになることはできないものかと考えて悩ませている。
コロナより怖いことだし、コロナに感染した人以上に気の毒だ。
同じように、コロナへの恐怖が10%だとしたら、それに恐怖する人間90%の方がよっぽど怖い。
そして「今日の雨、傘がない」じゃなくて「今日の花粉」の事の方が自分にとっては深刻なのだ。
非難を承知で書くけど、僕は「普通に生活したらいい」と思っている。
ナーバスになりすぎるとかえって寿命を縮めるよ。他人のイベントやライブにあーだこーだと口挟んだところでどうなるってんだ。
なるようにかならんだろ、こんなもの。
ディスカッション
コメント一覧
列整理のあるべぇとをしてる最中こんな事を考えてました。
老いも若きもタイムラインという滝から降り注ぐ情報の雨粒を天の恵みだと必死に集めたが、集めた雨粒に溺れてしまい、やがては海になり賢い板で何とか波乗りしようと躍起になる。荒れた海になれば波乗り人は丘でバドワイザーとBBQに勤しむのが定番なのだが、会社人式登山で鍛えた「引き返さない」という言葉を胸に刻み、荒波へと飛び込んでゆく。荒波に揉まれてなお私たちは目の前のことが全てだと、賢い板から仲間へ無数の伝書鳩を飛ばす、誰もが賢い消費者になったと誰もが考えていたが、本当は欲望を加速させただけであった。賢さを人助けや、良いことに使う世の中にあってほしいが、これからの時代更に欲望を加速させていくことだろう。
焦るな、特効薬はない、マスクよりも手洗い、うがい、美味い飯と、快眠、快便がコロナウィルスと仲よく付き合う手段だ。風邪を引いたり気分が悪い時は会社を休んで、布団にくるまって美味しい物を食べて明日に備えるんだ、いいとこ取りなんて出来ないぞ。足りすぎる知識よりも、足りすぎる体力を養って、看護師さんとお医者さんの言うことを素直に聞く素直さを今すぐ身につけるんだ!今すぐだ。そして、目の前の寿司屋でたらふく大将のオススメを食って、映画館でハシゴして、いい気分になってぐっすり寝るんだ。このんなことをつい叫びそうに。
そんなことを開店一時間前から並ぶ黒山の人だかりを見ていた私の頭の中を駆け巡ったのです。やることやったら、後はほどほどに控えた生活するしかないのだと話しても、見えないものへの恐怖感というのは皆さん凄いものです。神社やお寺の入り口で手と口で清めるという行為は、改めて物理的にも清潔な場を保てる作法なんだなぁと感心するこの頃です。
>kenmo2さん
コメントありがとうございます。
怒涛の言葉の海を泳ぎ渡るのは大変で、時には自分の舵取りに不安を覚えるものです。
でもね、なぜ人は高齢化すると生命の危険を必要以上に増幅させるのだろう?というのが、今の最大の疑問です。
もう達観してもいい年齢の方々が、一番死に怯えながら日々を送っています。
自分は3度の交通事故から生還して、自分なりに死というものを達観しているのですが、
あと20年も年齢を重ねたら、やはりアノ方々のように死に怯えるようになるのかな?
これだけ何度もモノ不足(オイルショック、1993米不足、阪神淡路大震災、東日本大震災)を経験しておきながら、あわてて朝からドラッグストアに行列を作るのかな?
そんな事を考えこんでしまいました。
あー嫌だ嫌だ「年取る前に死んでしまいたいぜ」(The Who “My Generation”の歌詞の一節)