ヒロミツ

おみおくり

ムッシュの活躍のことを書いたと思ったら、そのひとつ後の世代のヒロミツさんが亡くなってしまった。

ムッシュとヒロミツさんといえばリメイク前の「戦国自衛隊(1979)」で対照的な役柄を演じていたのが記憶に残っている。ムッシュは戦乱で親を失った子供達の面倒を見るため、この時代で暮らそうと決意し、映画の前半で早々に退場してしまう。いっぽうヒロミツさんはといえば、映画の中盤の山中シーンで敵兵の襲われ、血まみれ泥まみれになりながら逃げ廻って、挙句のの果てに槍かなんかでクシザシにされて死んでしまう。ヒロミツさんの死に恐怖して逃げ回る演技は素晴らしかった。

なお、ムッシュが早々に退場したのには裏話があって、映画撮影時に出演者は全員自衛隊へ体験入隊したのだが、ムッシュはハードなスケジュールに音をあげたんだそうだ。彼は監督に「体がモタないから、映画おろしてくれ」と交渉して、アノ役柄になったそうな....「僕だけ逃げてラクをした」と彼自身が自伝に書いている。

ムッシュもヒロミツさんもそうなんだけど、僕の世代で彼らの音楽に興味を持った人っていうのは、後追いで色々なものを発見していった。「あの人っていつもTVでヘンな事ばっかりやっているけど、実は凄い人だったんだ」という「実は凄い人伝説」を頭の中で構築して、その人を評価してしまう。その分思い入れも過剰だし、評価も過剰なのかもしれない。まあいいか。

ヒロミツさんがいた「モップス」。彼らが「朝まで待てない」でデビューしたのは1967(昭和42)年11月のことだった。僕は1歳11ヶ月の乳幼児だったからよくは覚えていないが、当時のモップスは「日本発のサイケデリックサウンド」を標榜していたらしい。これは彼らが所属していたホリプロの社長のアイデアだったそうだ。また、初期の一連のシングルは村井邦彦(「翼を下さい」の作曲者)が手がけており、作詞は阿久悠だった(「朝まで待てない」は彼のデビュー作)。要するにモップスはある程度計算された中で生み出されたグループだったわけだ。

モップスは翌年「サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン」という1stアルバムをリリースしている。シタールあり、ファズ・ギターありで、それなりに極彩色のトリップ感覚を体験できるアルバムだ。海外のアーチストがマジでドラッグの幻覚作用によって作品をクリエイトしていたのに比べれば、雰囲気だけを盗んできただけなので、その健全なアングラさが今となっては可愛らしい。
サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン
今では海外でも評価の高いこのアルバムだけど、問題なのはこのアルバムがリリースされた1968(昭和43)年秋という時期。すでに海外ではサイケデリックのブームも後退しつつあったし、日本ではグループサウンズの熱狂的なブームに陰りが見え始めた時期だった。彼らはすぐに、自分たちが作り出した(あるいは作らされた)パブリックイメージの呪縛から抜け出さなくてはならなくなった。

ロック・バンドとしてのモップスらしさを確立したのは、1971(昭和46)年の3rdアルバム「御意見無用(いいじゃないか)」だったと思う。ツェッペリン色(&お祭り色)のあるタイトル曲に象徴されるように、このアルバムでは海外のハードロックに伍するための努力を惜しまなかったが、皮肉なことにコミック色の強い「月光仮面」がスマッシュヒットしてしまったため、星勝という才能あるメンバーの高度な音楽性と、ヒロミツのコミカルのキャラが共存するというオカシなバンドとなってしまった。

この当時の現存する数少ない映像がYoutubeにあった。

これは吉田拓郎のカバー。おそらく1972(昭和47)年の映像。フォーク・ブームとからんだ曲としては、モップスの星勝が井上陽水に提供した「あかずの踏切」も有名だ。結局モップスはフォークシンガーとのコラボを中心に活動を続け、一方でヒロミツさんはタレントとしての人気も上昇、結局1972(昭和49)年にモップスは解散する。

最後になるけど、僕の記憶に残っている最も古いヒロミツさんはコレ。
これまた1972(昭和47)年のCMらしい(なおCM中出てくる木だが、もしかしてヤマナシの木ではないかと思う)。

世間がやれあさま山荘だ、やれ連合赤軍だとやっている時代だった。
小学1年生の僕までもが旅に出たくなるようないいCMだった。

ヒロミツさん、のんびり行くんじゃなかったの?
いくら何でも早すぎるよ。

おみおくり