ばばちゃん

おみおくり

子供の頃、僕は母方の祖母のことを「ばばちゃん」と呼んでいた。東北ではそう呼ぶのだろう。
明治43(1910)年生まれの「ばばちゃん」は、春風のような暖かみのある人だった。僕は「ばばちゃん」からこんな話を聞いて育ってきた。

●「明治の終焉」
当時2歳になるかならないかだったはずの祖母だが、着ていた服に曾祖母から毎日のように黒の喪章(リボン?)をつけてもらったのを覚えていると言っていた。これは明治天皇が崩御したため、喪章を付けることが奨励されたからだろう。

●「狼の話」
祖母の故郷は仙台市内。子供の頃、近郊の山へ大人たちと遊びに行って狼に追いかけられた記憶があるという.....いわゆる「日本狼」は明治時代にすでに絶滅しているわけだから、おそらく野犬のたぐいだったと思うのだけど、祖母は「いやぁ、あれは狼だった。周りも皆そう言っていた」とのこと。

●「ドイツ人捕虜の話」
祖母の父(僕の曽祖父)が陸軍軍医(おそらく"医者"ではなく"薬剤師"が正しい)だった関係から、祖母は曽祖父の転勤に伴い、各地を転々としていた時期がある。新潟県の村松や青森県弘前にも居たようだ。曽祖父が千葉県の習志野の連隊に勤務していた際、ここにドイツ人の捕虜が大勢収容されてきた。曽祖父は仕事がら多少なりともドイツ語ができたため、通訳的なこともやっていた。そんな関係からか、お人形さんのようだった幼少期の祖母はドイツ人に「とても可愛がられた」そうだ。
映画「バルトの楽園」でもご存知のとおり、第一次世界大戦中、日本は中国にあったドイツの租借地青島=チンタオを攻撃し、日本各地にドイツ人捕虜収容所が作られている。習志野俘虜収容所があったのは大正4(1915)年から大正9(1920)年だというから、これは祖母が5歳~10歳ぐらいの体験と思われる。
なお、当時谷津あたりに官舎があって、祖母はそこに住んでいたと言っていた。今では信じられないが、あのあたりの道路はひどいヌカルミで、雨の日に長靴を履いて歩いていると、長靴が泥にとられて、中身の足だけがスッポ抜けたとのこと。
洋装のばばちゃん 大正のはじめ

●「イタコの話」
仙台の町では必ず町内に1人は「イタコ」が住んでいた。「イタコ」と言っても恐山のそれではなく、いわゆる霊能者や占い師のことを言ったようだ。もし探し物がある場合は、その「イタコ」のところへ言って尋ねればよかった。「ピタリと場所を当ててくれた」らしい。祖母自身も「下駄箱の何段目にある」と言われて探してみたら、見つけることができたそうだ。

●「女学校の合格発表」
おそらく昭和2年の話。祖母は親元を離れて上京し、先生の資格を得るために東京の師範学校に進学することにした。曽祖父が「これからは女子といえども手に職を持つべし」という考え方だったのだ。合格発表の日は曽祖父と連れ立って学校まで行った。その学校は坂の上にあるのだけど、祖母は結果を見るのが怖くてそこまで行けない。そこで曽祖父に「もし合格していたら合図をして欲しい」と言って、坂の下で待つことにした。それから数分後、坂の上の校門から出てきた曽祖父は、ニッコリ笑いながら手にしたステッキを上にかざして、大きくグルグル廻したのだそうだ。

●「野球の話」
女学校時代、祖母は友人に誘われて学校内に設立された女子野球チームのメンバーだったことがある。祖母は当時の女性としてはかなり背が高い方で....少なくとも25才の頃の僕より背が高かったから168cm近くはあったと思う....ファーストを守っていた。
「おそらく日本で最初の女子野球よ」などと自慢していたが、日本女子野球公式サイトによる記録によれば、大正6(1917)年にすでに今治で女子の野球チームがあったとされている。何しろ昭和初期はモガモボの時代、そうした時代の空気を一杯吸い込んだのだろう。当時の祖母のキャンパスライフの写真を見ていると、学校の制服も下の画像のような「はいからさん」風袴姿から、途中で洋装に改められている。授業でもテニスをやったり、ダンスをやったりしていたことが、当時のアルバムからわかる。
女学生の頃
●「久宮の葬儀」
昭和3年、昭和天皇の第二皇女久宮が、誕生からわずか6ヶ月で亡くなった。この際、久宮の柩が葬儀場まで行く行列を、女学校の生徒全員で沿道に並んでお見送りした。「小さな柩を見るにつけ、幼い子供を亡くされた両陛下の気持ちをお察しすると、あまりにも悲しくて....泣きじゃくったわ」。この感覚に大正~昭和の乙女の精神を感じずにはいられない。

●「オムツの話」
卒業後、短期間だが小学校の先生(僕は地理と歴史を教えていたと聞いている)をやっていた祖母は、すぐに祖父と結婚し(昭和6年?)3男1女をもうけた。このうちの「1女」である僕の母は昭和13年に北海道で生まれている。ところがその直後、祖父が本州へ転勤することになった。青函連絡船で津軽海峡をわたる途中で「いらなくなったオムツを順次海に投げ捨てていった」のだそうだ。この話はもうひとパターンあって「最後にはおむつの洗濯に使っていた釜を投げ捨てた」というもの。
結婚した頃

●「空襲の話」
太平洋戦争中、祖母は東京に祖父を残して子供達とともに仙台の実家に疎開した。
ところが仙台の実家で夜になって寝る段になると、必ず三男坊(僕の叔父)が「天井が落ちてくるよう、天井が落ちてくるよう」と言って泣くのだという。祖母は「この家はしっかりしているから、天井など落ちてこないわよ」と言うのだけど、それは毎晩続いたらしい。
しまいには祖母も音を上げ、子供達を引き連れて他の部屋で寝ることにした。そうしたら三男はぐっすり眠るようになったのだという。
祖母は「不思議なこともあるものだわ」と思っていたのだが、やがてその意味がわかる時がやってきた。昭和20年7月10日、B29の大編隊が仙台を空襲した際、焼夷弾が落下して最初に火がつき始めたのが、まさにその部屋の屋根付近だった。
この頃、祖母の実家は薬屋だった。アルコール類は引火を極力避けるため、大きな瓶に入れて蔵の床下に貯蔵していたのだが、それらも熱で誘爆し、結局実家は全焼してしまった。

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さて、僕は戦後20年目に生まれたわけだけど、僕にとって「ばばちゃん」の一番古い記憶は抱っこされながら「めんこい、めんこいなぁ~」と頭を撫でられていたことだ。真綿にくるまれたような心地よさを今でも覚えている。「ばばちゃん」と風呂に入る時は、その大きな体によって大量のお湯が風呂から流れ出てゆくのにびっくりしたものだ。
僕と祖母
中学生になると、僕は時々親子ゲンカをして家出した。「家出した」と言っても他愛のないモノで、そういう時は東京杉並の祖母の家に転がり込むのだった。そうすると祖母は「おお、よくきたねぇ~」と喜んでくれて、説教はひとつも言われたことがなかった。そのくせ、コッソリ僕の親に電話して「今コッチに来ているからね~」と言っていたのを、僕は知っている。そんなささやかな人生の「逃げ場所」みたいなモノが、あの当時の僕にどれだけ助かったかわからない。

1990年、僕が就職して最初の勤務地は大阪だった。関西へ行く前に挨拶しに行った。
「大阪では社宅に住むの?」
「独身用の借り上げアパートがあるんですが、3LDKの部屋に新入社員2人で住まわされるようです」
「おおいやだ、お互いに監視させようというのだね」
この人にはかなわないなぁ~と思った。

僕と祖母には関西と東京という距離があったし、僕は仕事が忙しくて年に一回しか帰省できない時期だった。いっぽう祖母は高齢なうえ、ここ数年心臓に持病があった。そんなわけで僕は帰省して祖母に会うたびに、いつも「一年後には会えるだろうか?」と思っていた。それが僕が関西から戻るまで10年間、何事もなかった。

1995年に僕は結婚し、翌年には長女が生まれた。祖母にとっては最初のひ孫だった。祖母は長女の写真を部屋に飾り、毎朝「おはよう」と挨拶していた。帰省して祖母に娘を見せた時には娘のでっぷりとした脚を見て「おお、がっしりしたあんよだね~、こりゃ健康に育つよ」と喜んでくれた。年賀状には「生命は永遠に続いてゆくのだと思います」と書いてあった。

そんな僕が横浜に戻ってきて、2002年を過ぎた頃から、祖母はめっきり体が衰えはじめた。ベッドに横たわっていることが多くなってきた。最初はベッドで冗談を飛ばしたりしていたのだが次第にじっとしていることが多くなっていった。言葉も発することも少なくなった。それでも祖母は頑張った(もちろんご家族の支えも忘れてはいけない。特に叔母には頭が下がる)。その生きる力というものは驚嘆に価した。ベットに寝ている祖母の手を握ると、握り返してくる手はいつも力強かった。
「明治の人は強いなぁ~」と、この5年間というもの、僕はいつもそれを感じていた。
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だが、祖母の頑張りも5月7日で終わった。
享年97歳。あと2ヶ月もすれば98歳だった。

御棺の中の祖母はすっかり痩せてしまっていたけど、とても綺麗だった。明治、大正、昭和、平成という激動の時代を強く、そして美しく生きた人の綺麗さだと思った。

喪主であった叔父が挨拶でこう言われた。
「母が一番大変だった時期は、第二次世界大戦のさ中に4人の子供を育ててきたことだと思います。その4人が4人とも大きな病気もなく、一人として欠けることなく60代70代まで育ってきたこと、母がどれだけ我々の健康に注意したかわかりません。それを今でもありがたく思っています」

その4人から8人の孫が生まれ、さらに6人のひ孫が生まれた。

大正、昭和初期というリベラルな時代を育っただけあって、祖母の考えというのはとても柔軟だった。
語る言葉の端々に現代とは違う、古き時代の精神が感じられた。
しゃべりかたもそうだった。小津安二郎の映画から飛び出してきたような古き時代の言葉だった。
僕にはまだまだ聞きたいことが沢山あったし、祖母には伝えきれないことが沢山あったと思う。
その精神、その言葉、その沢山の記憶が煙となって、今日、空へ昇っていった。

「ばばちゃん」ありがとう。
あの世でもこんな僕を見守って下さい。

おみおくり