夜が明けたら -浅川マキの世界-

おみおくり

高校生の頃っていうのは、女の子のことか、バンドのことか、スポーツのことか、やたら難しいことか、やたら簡単なことか、メインストリームのことか、アンダーグラウンドなことか、その全部を一生懸命に考える年頃でして、そんなパーツのひとつとして、僕がハマったものに寺山修司がいた。

この人ぐらいマルチメディアな人はいなかった。ウィキペディアの「寺山修司」をみると、「詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家」と1次元から3次元まで(という表現法であっているのかどうかは知らないが)あらゆる表現活動を行っていた。

この人は僕が高校3年生のときにあっさり亡くなってしまった。

これは余談だけど、それから間もない時期に青山だったか渋谷だったかとんと記憶がないのだが、大きなホールで開催された「寺山修司追悼集会」に行った。今だったら「追悼イベント」とかという表記なんだろうけど、当時は「集会」だったことに、70年代的な臭いを感じなくもない(すでに1983年だったが)。
ここで、大学時代に寺山の親友だった山田太一が壇上に上がって追悼の公演を行った。
「(大学生の頃)新宿にあった広い空き地で、なんだか急に可笑しくなって、寺山と二人でずっとゲラゲラ笑い転げていたことが、いい思い出です」。これが妙に印象に残っている。
この「集会」で寺山の遺作となった監督映画「草迷宮」が日本初公開された。結局この映画がきっかけで大学時代に泉鏡花にハマるようになった。
中3のときに体験したJohn Lennonの死同様、人生の節目節目にこういう人が亡くなることで、かえって次のステージに自分を進ませるように「ケリ」をつけられていたのだと思う。ただ今でも彼が自分の心の中のどこかにあるのは、彼の才能の凄さもさることながら、彼が亡くなったのが阿佐ヶ谷の河北病院が、かつて僕が生まれた病院だった、という偶然からだろう。

そんな彼が「生み出した(正確には見出した)」のが「浅川マキ」だった。
彼とマキが出会ったのが、寺山が主宰する劇団「天井桟敷」だったのかどうかは知らない。まあおそらくあの劇団には居候とか色々な人がゴロゴロしており、ある日現れたかと思うと、ある日には消えていたりしたから(そんな中に小椋佳もいた)。そんな中の一人だったんじゃないかと勝手にそう思っている。彼女のアルバム「浅川マキの世界」は、その楽曲の多くを寺山が作詞している。間のSE(汽車の音など)も寺山の演出だ。

僕はこのレコードを高校の通学途中にあったレンタルレコード屋さんで借りた。場所は千葉県市川市真間にある大門通り商店街入口の国道14号線に面した角地。国鉄市川駅のすぐ近くだった。

これは余談になるけど、当時はレンタルレコード店(CD店)の創成期で、全共闘くずれ(かどうかは知らないけど)30過ぎのお兄さんが、自分の持っていたレコードコレクションを元手に、レンタル屋さんを始めるというパターンだった。
僕と仲の良い友人とが通っていたその店は、店内にズラリとレコードが並んでいるのではなかった。この人が撮影した一枚一枚のレコードの写真がカタログになっていて、その中から選んだものを、お兄さんが後ろの棚から出してくれるというものだった。現在のTSUTAYAみたいに大量の在庫を並べないでもレンタルレコード屋ができた時代だったのだと思う。

さらに話は脱線する。この店の前にいつもママチャリが止まっていて、それがその店のお兄さんのママチャリだと気づくのにそうはかからなかった。そこには住所と名前が書いてあった。市川市国分に住む山田徹(仮名)さんだ。それからは彼のあだ名は「山田徹」となった。山田徹のコレクションは60年代の邦楽と洋楽が充実していた。

山田徹はお店にないレコードを尋ねると、「すいません、ありません」と平謝りした。
その「平謝り」の感じが実に絵に描いたような「平謝り」さ加減だった。
それが面白くて、明らかにないと分かりながら随分無茶苦茶なリクエストをしに行ったものだ。
「The Kinksの Village Green Preservation Societyありますか?」
「すいません、ありません」。

でも山田徹を平謝りさせるには、こちらもそれなりに勉強をしなければならない。そうやって僕と友人はロックの知識を広げていった。だって「ヴィレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティ」って英語を覚えるだけでも大変だ。山田徹も自分のコレクションの痛いところを突いて来る生意気な高校生2人を面白がっていたと思う(あるいはマジで嫌がっていたかもしれない)。

この人のおかげで、僕とその友人はどれだけ自分の音楽世界が広げられたかわからない。
当時、一般市場でマトモに入手できなかったThe Whoの過去のアルバムでも随分お世話になったし、The ByrdsやVan Morrisonに出会うことができたのも、この人のおかげだった。「何かおすすめありますか?」と尋ねて「Van Morrisonの"Moondance"なんかどうですか?ハッキリ言って名盤です!」この「ハッキリ言って名盤です!」というセリフを何度聞いたかわからないけど、それを聞く度に自分の音楽世界は広がっていった。

山田徹は新譜の貸し出しもしているのだけど、そのラインナップが滅茶苦茶だった。
Oingo BoingoのNothing To Fear(1982)とか、Klaus NomiのSimple Man(1983)、Penguin Cafe OrchestraやBrian Enoの一連のアルバムとか、もう当時の新譜としてもわけのわかんないものだらけのオンパレードで、新旧入り混じってお世話になったものだ。だけどこのお店でMichael JacksonのThriller(1982)を貸していたという記憶が全くない。おそらく貸していなかったんじゃないかと思う。

そんな山田徹のお店だったわけだけど、2年ほどたったある日、友人と行ってみたら「空店舗」の札がかかっていた。
友人がつぶやいた。「しまった!ホラ以前”ママチャリで走る山田徹を追跡して、山田徹の家をつきとめよう”って言っていたことがあっただろ?あれをやっておけば良かったな」。
わずか2年の間にレンタルレコードの黎紅堂が全国展開しつつあり、どこでも似たような品揃えのレンタルレコード屋があっという間に浸透しつつあった。そんな時代に山田徹のお店はマニアックすぎたのだろう。
エイベックスのマックス松浦がレンタル・レコードの「友&愛」の港南台店でアルバイトを始めるのは、この数年後。それがきっかけてで「友&愛」上大岡店を開くのはもっと先のことだ(これがエイベックスの前身となってゆく)。

音楽には「伝承文化」として側面があるけど、山田徹コレクションにもまさにそういう一面があった。山田徹から借りたThe Byrdsのベストがきっかけで、今は彼らのCDが20枚以上のコレクションとなっている。楽器フェアではRoger McGuinnからサインをもらうこともできた。Van Morrisonに至っては30枚以上のCDが後生大事に家に並んでいる。
つまり山田徹のコレクションは、僕に伝承されているわけだ。当時は害悪ばかりが叫ばれていたレンタルレコード屋さんだけど、それないに音楽業界に寄与していたんだと思う。特に僕みたいな馬鹿野郎には。

さあて、何の話をしていたんだっけ。そうだ浅川マキだ。
彼女の訃報が届いたのはおとといのことだった。
公演先のホテルで亡くなっているのが見つかったという。
たった独りで亡くなってしまうなんて、なんだか彼女らしい最後だと思った。
彼女が持っていた70年代のアングラな雰囲気そのままだ。
寺山修司が持っていた美学を彼女はずっと伝承して、
そのまま21世紀まで生きた数少ない人だったと思う。

(朝日楼)

彼女の有名な「夜が明けたら」は、こんな出だしだ。

夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
切符を用意してちょうだい
私のために
一枚でいいからさ
今夜でこの街とはさよならね
わりといい街だったけどね
(作詞 浅川マキ)

きっと彼女はお決まりの黒のロングコートにブーツ姿で、
今ごろ汽車に乗っているのだろう。

話が脱線しまくりの「おみおくり」記事でした。

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