さよならそしてこんにちは

教室事件簿

2003年9月に僕がその「本部」へ行ったのは、スーパーバイザーの募集に応募するためでした。
「スーパーバイザー」というのは各拠点を廻って経営に対するアドバイスや本部に対する要望を集約するという仕事です。当時の僕は3月以来失業中で、京都太秦にある映画音声の録音スタジオの知人からアナログ盤のデジタル化の仕事を下請けして、何とか食いつないでいる状態でした。いや家族3人の家長としての責をまっとうできる状況ではありませんでした。

ところがその「本部」の事業を調べたり、話を伺っているうちに「あっ、これは私が自分でやった方が面白いかもしれないぞ」と思ったのです。そして面接から帰ってくるなり、即座にそしらぬ顔をして「オーナー説明会」にエントリーしました。そして説明会に行くまさにその日、本部から届いた手紙に返却履歴書と不採用通知が入っていたのが今でも印象に残っています。
「落としたハズのヤツ」が涼しい顔をしてオーナー説明会に来たわけですから、本部の方も大笑いでした。
まあ無茶苦茶です。

12月24日に本部と加盟契約を締結し、その席上で本部の方に言ったのが「私は月給制でインストラクターを採用しようと思っています」ということでした。当時まだ展開している教室は10校程度で、月給での常勤雇用を打ち出したオーナーは一人もいませんでした。逆に言えば「こちらは本気ですから、いい加減な人を紹介しないで下さい」というプレッシャーを本部に与えたことになります。もっとも、こちらも月給制にしてペイできるかどうかなんて、全く考えていませんでした。
「何とかなるだろう、多分」。本当にそれだけでした。

そして僕は本部の紹介で「イチオシ」のharuさんと出会ったのです。その面接は2004年の1月ごろだったと記憶しています。彼女は自らお金を払って本部の研修生になった子で、もちろんボイストレーナーとして食べてゆこうと考えていました。面接の彼女の印象は、とても華奢な感じで言葉数も少なく、僕は面接中に「大丈夫かな?この人」と思いました。そこで彼女にこう言いました「私に従業員を選ぶ権利があるように、貴方にも経営者を選ぶ権利がある。貴方はこの私についてゆきますか?」。
すると彼女は「ハイ頑張ります」と言いました。そこで僕は「別に頑張らなくていいです。山で頑張ったら死んでしまいますから。貴方のベストを尽くして下さい」と言いました。考えてみればこんなトンチンカンな会話はないですね。

後年になって「あの時は本当にやる気があんのか?と思ったよ」と僕が言うと、haruさん曰く「あの時は無茶苦茶緊張していた」んだそうです。まあそんな風にして30代後半の僕と20代前半の彼女とが一緒に仕事をすることになったわけです。

2004年2月にパルポート上大岡に物件を見つけ、スタジオ工事の手配も完了し、開業日も3月18日と決定しました。改めて顔合わせということで、僕とカミさんとharuさんの3人で教室近く越戸橋のロイホで食事をしました。その際に彼女が言ったのは「父が癌で入院していて、もしかしたら開業の時期に危ないかもしれません」ということでした。

そして開校直前の3月13日、haruさんから電話がかかってきて「父が亡くなった」と告げられました。
その時「出勤日を数日ずらそうか?対応できる方に関しては僕が体験レッスンをやるから」と言うと、彼女はしっかりした声でこう言いました。
「いいえ、私やります。その方が気分を変えられますから」。
このとき、この子は芯のある子だなと思ったのです。

彼女にとって、自分の父の亡くなった直後に一緒に仕事をスタートさせた僕という人間は、「父の代わり」とまでゆかないものの、何かその代償となるような存在だったように思います。それをなんとなく感じていたから、僕は彼女を信じて用いてきました。だから数字のことは一切言ったことがありません。これは他のスタッフにも同様です。退会者が続出して彼女がふさぎ込んでいた時には「その程度じゃあここは潰れないから安心しなさい」と励ましまたこともあります。

ちょっと余談になりますが、スタッフに数字の事でとやかく言わないという姿勢は、経営者としては失格かもしれません。
でも考えてもみれば、本来受動的に動く人間よりは、能動的に動く人間の方が成果は出るに決まっているんです。そこを考慮せずに、ただただ数値によって受動的に動かそうとするのは、その人その人の本来あるモチベーションを削いでいる結果になりかねません。逆に言えば受動的な人には数字を見せた方がいいということになります。それと数字で人を動かさないというのは、こと「音楽」というソフトウェアを扱う教室としてはアリだと思うのです。もし私が営業時代の感覚で、目標グラフなんか並べて徹底した数値管理、達成度の評価などをハナからガンガン打ち出していたら....少なくとも最初の数年間に....おそらくもっと異質なモノができあがぅていたと思います。「音楽」というのは流動的なエーテルみたいなもので、だからこそ一般的な経営のやり方では扱いが難しいのだと思います。そのヘンの押し引きが一番難しいです。

さて、話を2004年に戻しましょう。
この年のうちに、スタジオが1棟増え、生徒さんが増えという感じで教室はじょじょに大きくなってゆきました。
なぜか個性的な生徒さんが多いのがこの教室の特徴でして、その根本的な理由がいまひとつよくわからないのですが、明らかに「これは面白いぞ」と思ったのが、記念すべき第一回目の合同発表会でした。
他の教室の方々が割とおとなしいのに対し、ここの方々ときたら、やりたい放題でした。
チャイナドレスで観客を挑発するわ(ゆっちぃ)、ミカンのダミーを客席に投げ、観客にマイクを差し出して一緒に歌おうとするわ(雄頭→59喉→フカキシアン)、いきなりダンディな熱唱をしてくれるわ(マサトシさん)、黒でそろえたドレスで可愛らしく歌うわ(さぉ=まだ高校生だった、ハマー=現在ホーリーアローズボーカルスクール代表Shinyaオーナーの奥さん=来年1月17日に第一子誕生予定)、大人の女性の熱唱を見せてくれるちゃっきぃさん(今ではゴスペルシンガーや司会の仕事でがんばっています)とガチガチのかずみちゃん(職場が近いこともあって、今ではカミさんの飲み友達です)...まあとにかく、よくもまあと呆れるぐらい皆さんのキャラが立っていた。そして感心したのは他校のステージを一生懸命応援する姿勢でした。いや応援しようというか一緒に盛り上がっていたわけですが、手拍子をしたり手を振ったりして、明らかに中央後列右側の席に座る「この方々」だけが盛り上がっていたのです。当時の発表会に出演された方(マサトシさん、ゆっちぃ、さぉ)が今でも教室に通ってくれているのはとても嬉しいことですし、あの時の空気がいまでもしっかり続いていることが、僕はなによりの宝物だと思っています。
そうそう、あの時、かろうじて発表会の収支が5千円ぐらい出たのですが、帰りに銀座のナイルレストランでカレーを食べた際、その5千円をみんなに出してしまいました。そのぐらい楽しい気分だったのです。

結局この1年目で形作られた精神みたいなものが、この教室をこの教室たらしめている、形作っている、そのように思います。

今回はなぜかharuさんの話ばかりになってしまい。これを読んでいる生徒さんによっては、もっとhitomiさんやNoriちゃんや、Nagisaちゃんの話も聞きたいと思うでしょうけど、それはまたいつかお話できる時が来るでしょう。

まあ、とにかくスプリングフィールドharuさん、サンシャインhitomiさん、ケンドー2ダンNoriちゃん、ブロードウェイNagisaちゃん。
この4人のスタッフと、個性的な生徒さんたちと新たな出航ができることを、幸せに思います。

いよいよ本部にさよならを言うことになりました。あの時僕がフラっとスーパーバイザー募集の記事を見ていなかったら、今の自分はいなかったと思いますし(あの時に採用された方は1年ぐらいで退職された)。最初にharuさんを紹介されなかったら、どうなっていたでしょう。そういう意味で新らしい一歩を踏み出すに際して、お礼を言わなければいけません。

ありがとうございました。

明日からミューズポートの歴史が始まります。

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