ヒロシマ -被爆建物(3)- 山陽文徳殿の法輪

ヒロシマの記憶,歴史の切れ端

さて、この項を書く前に「歴史を語る」ということについてその難しさについて考えてみる。
前回の記事において「広島生まれの東京住みさん」から大変興味深いコメントを頂いた。曰く「(一般的に)原爆炸裂時刻は8時15分と言われているけど、そうではなかったのではないか?」。
私は当たり前のように教科書どおりの「8時15分炸裂」というよう書いてきたから、「ギョッ」とするようなコメントだった。そこで「原爆は本当に8時15分に落ちたのか―歴史をわずかに塗り替えようとする力たち(中条 一雄)」という本をAmazonでとりよせて、早速読んでみた。
この本の内容については、吹雪日記さんの記事「原爆は本当に8時15分に落ちたのか、止められた時計、14万の歴史」に大変詳しく書かれているので、こちらを読むことをおすすめする。
原爆資料館で見た時計
(原爆資料館に展示されている時計。この時計は8時15分を指しているが、8時14分、あるいは8時10分を指している時計もある。そもそも当時の時計は正確ではなかったと作者は語る。「吹雪日記」さんは、この時計の秒針が動かされていることを指摘している)

これは作者の友人が語る被爆体験から始まる。その友人は「原爆が炸裂した時間が8時15分というのは遅すぎる、8時6分頃だったと思う」という。そこから端を発して作者はさまざまな文献や証言を集めてゆく。早いものは「7時50分」遅いものは「8時21分」.....作者が意図的に抽出しているかどうかを差し引いても「10分より前、8時をそれほど過ぎていない時間だった」という発言の多さには驚かされる。結局のところ決定的なものは出てこない。だけど客観的な証拠が何一つない中で「8時15分」という時間だけが事実のいかんにかかわらず「記録された歴史」となっていくプロセスは理解できた。
歴史とは「勝者によって作られる」というのとはちょっと違う。そう、歴史とは「記録に残されたものだけが歴史」なのである。最近は「下山事件資料館」の更新を怠けている管理人だけど、これは相当注意しなければいけない点だと思った。
そんな中で「建物」だけは事実を刻んでいるに違いない、そう願いたいところだ、というところで11月に書き溜めておいた記事をUPする。
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【山陽文徳殿】
●住所:広島市南区比治山町7-1
●爆心地からの距離:1,820m
●建造:昭和9年10月

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多門院前の坂道を百メートルほど進むと、うっかり通り過ぎてしまうような「山陽文徳殿」と書かれたボロボロの看板があった。
「ああ、ここだ」と思いながら、ちょっとした石段を登ったところにその建物はあった。
山陽文徳殿
現在この建物は使用されておらず、建物周辺は草木ぼうぼうだ。雑草を踏み分けながらの見学となった。建物の全景を撮影することさえ難しい。おそらく数年もすれば、このように立ち入っての写真撮影も不可能になるかもしれない。
「横浜からわざわざここへ来る人は珍しいかもしれないね」と娘に言う。
ここで見たかったのが、建物の上部にある法輪。
山陽文徳殿の法輪
西側からきた爆風によって、へしゃげてしまっている。

「ヒロシマをさがそう – 原爆を見た建物 – (西田書店)」によれば、この建物は頼山陽(らい さんよう)の没後百年を記念して、頼家一族の墓所(多門院)の隣接地に寄付金などによって建てられたのだという。
それじゃあ頼山陽って誰だという話になるのだけど、彼は尊皇攘夷思想に影響を与えた学者なんだそうだ。そのイカニモな思想が、建物が建造された昭和9年頃の日本の思想の潮流とマッチしていたのかもしれない。
いま、その思想はこうやって草木ボウボウの中に埋もれつつある。
たまにものめずらしい顔をした親娘が訪れるぐらいのものなんだろう。
山陽文徳殿の法輪
上掲書によれば戦時中は市役所の戸籍選挙課分室となり、市民の戸籍簿が保管されていた。爆風によりガラス窓が飛散。ここで職員1名が亡くなった。

建物の前庭に「被爆樹木 ソメイヨシノ」と札のかかった木があった。
原爆にも耐え抜いた樹木だ。
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人間がまたこんな馬鹿なことをしないように、見守っていてくれたまへ。

ヒロシマの記憶,歴史の切れ端