鈴木貫太郎傳と記念館
1979年に亡くなった母方の祖父「小野寺五一」の遺品の中にこんな一冊の本がある。
終戦時の内閣総理大臣だった鈴木貫太郎の伝記だ。
鈴木貫太郎傳記編纂委員会が編纂し、発行日は1960(昭和35年)年8月15日とある。終戦15年目のその日に出版されたことがわかる。
全4章のうち第3章「内閣編」だけでも350ページあり、これだけで本書の半分以上のボリュームがある。133日にわたった鈴木貫太郎内閣について触れている。
学生の頃、祖母の家に泊まりに行くと、夜の暇つぶしにしばしばこの本に目を通した。個人を顕彰する目的で書かれた本だからその内容はある程度割り引いて読まなければいけないのだけど、戦後からわずか15年という時期にそれに至る経緯をかなり詳細に記録している。おそらくこの本がなければ大宅壮一(あるいは半藤一利)の「日本のいちばん長い日」も誕生しなかったのではないかと思う。
たったそれだけの事が「鈴木貫太郎」という人物との距離をなんだか近いものにしている。もちろんあちらさんはそうは思っていなくて、こっちが勝手に思っているだけだ。
さて、千葉県に「関宿(せきやど)」という街がある。今では野田市に編入されてしまったため、住所を読んでもピンと来ないけど、かつて千葉県市川市に住んだことがある人間にとっては「関宿」といえば「千葉県の最果ての地」というイメージが強い。
僕の住んでいる横浜からだと中途半端に遠いものだから、なかなか行こうとは思わなかったけど、3月29日に圏央道久喜白岡ジャンクションと境古河インター間が開通したことで、首都高→東北道経由で比較的楽に行けるようになった(五霞インターから10分ぐらい)。
そんなわけで7月5日に関宿へと行ってきた。
鈴木が晩年を過ごした旧宅跡地に隣接する形で建てられた建物だ。
「鈴木貫太郎記念館」と書かれた石碑は当時内閣書記官長として「終戦の詔書」を起草した迫水久常。
余談だが、この人は僕が小学生の頃はまだ存命で、終戦30周年記念のテレビ特番でインタビューを受けていた。官僚だった祖父は多少なりとも迫水さんとお付き合いがあったようで「とても気持ちのいい人でね」と言っていたのを覚えている。この当時は内大臣の木戸幸一も存命だったし、何よりも昭和天皇がお元気だった。当時の僕からすれば戦後30年なんて途轍もなく長い時間だったけど、当時は歴史を生々しく語れる人が社会にも周囲にもいくらでもいた。そういう人たちの「歴史」に触れた「感触」みたいなものが今なお僕の中に続いている。
記念館の入館料は無料なのには驚いた。ただ内部は撮影禁止だったので、有名な白川一郎「最後の御前会議」の絵も、下賜された昭和天皇の初等科時代の制服も撮影できなかった。展示物はさほど多いものではなく、全てを見るのに20分もかからなかったと思う。
(侍従長時代の鈴木貫太郎の写真。記者だった父方の祖父のアルバムにあったものを拡大)
以前、僕は「福井陸軍大演習の昭和天皇(4) -松尾伝蔵、岡田啓介そして鈴木貫太郎- 」で鈴木貫太郎について書いているけど、鈴木が昭和天皇にとっては父親のような存在であった。妻のたか夫人が昭和天皇の幼少期(4~14歳)までの教育御用掛だったし、鈴木自身も侍従長として天皇の良き相談相手であった。その事が災いして二・二六事件で鈴木は重傷を負うのだが、事件に際しての昭和天皇の発言「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり(私が最も信頼している老臣をことごとく反乱軍が倒した行為は、真綿で私の首を絞めることに等しい行いだ)」という発言は、とりわけ鈴木への強い想いに他ならなかったのではないかと管理人は思っている。
(驚くほど質素な鈴木貫太郎のお墓。記念館近くの実相寺内にある)
昭和20年4月に総理大臣に就任した鈴木は、なにしろ海軍軍人上がりの77歳の老人だ。政治家としての経験は何ひとつない。政治家としての才覚も弁も持ち合わせてはいなかった。だから失言で二度も失敗をしている。一度目は6月9日の「天罰発言」、そして二度目は7月28日に記者会見の席上でポツダム宣言を「黙殺」するという発言をしたことだった。さらにこの「黙殺」が「Ignore(無視)」と訳されてしまったことだった。もっとも、これによってアメリカが硬化して原爆が投下されたというのはナンセンスな歴史観だと僕は思っている。
そんな鈴木だが、この人には何ともすっとぼけた味があった。
鈴木が元来耳の遠いことは誰も知っていたが、いざ議会に出席して議員の質問を受けるとなると、さっぱり質問が聞こえぬらしい。通常の場合でも大臣には誰かがついていて、答弁の参考になるメモを作って大臣に渡すことはあるのだが、質問が聞こえないとなると大変である。迫水は終始総理につききりで、まず質問の要旨を摘記し、これに答弁要領を書き添えて渡さねばならなくなった。迫水は当時を回想して、「いくら僕が努力しても、質もが終わって総理が答弁するでには若干の時間がかかるが、その間議員からは猛烈な野次が飛ぶ、僕は気が気でないが、その間総理は一度も僕のほうを振り向こうともせず、泰然どこ吹く風かと端坐しておられて少しも催促がましいことをされなかった。普通の人であったら、きっと早くとか何とかいわれたに違いないが、僕はほんとうに感激した。僕が資料をお渡しすると、悠然と、ほとんどその資料を棒読みにして答弁される。これには、さすがの議員諸公も呑まれたようになって、何も言えなかった」(「鈴木貫太郎伝」P328)
ある時、甥の秘書官鈴木武が、「議場ではどんなふうにお聞えになるのですか」と、鈴木に尋ねた。すると鈴木は笑いながら「たくさんの蛙が一ぺんに鳴いているような声が聞えて、その間に単語が切れ切れに聞える」と答えたという。(同P329)
鈴木の写真を見ていてもそう思う。老獪さとは違う。なんだか田舎の田んぼで農作業をしている好々爺みたいな雰囲気すら感じる。
いやこれは本当にそうで、戦後になって故郷の関宿で農作業をする鈴木貫太郎の映像が現存している。
田舎の好々爺....この時期の各国指導者と比べるとわかる。ドイツがヒトラー(4月30日に自決)、アメリカがルーズベルトからトルーマン、イギリスがチャーチルからアトリー、ソ連がスターリンといった具合にそうそうたる指導者が並ぶ中で、日本はこのお爺さんだ。なんだか世界に向けて「日本にはもはや戦時指導者と言えるパワフルな人材がおりません」と苦し紛れのギャグをやっているように思えなくもない。
そんな鈴木にあったものといえば、日露戦争以来、死地を何度もくぐった豪胆さと天皇に対する誠実さだったと思う。
強硬な戦争継続論者であったはずの阿南惟幾陸軍大臣も主義主張を越えた所で鈴木の人間性に惹かれていったのだと思うし、昭和天皇は鈴木との阿吽の呼吸が戦争に終止符を打つのに大切だと考えていたのだろう。
物事を維持し続けることも大変だけど、物事に幕引きをするのはもっと難しい。
鈴木貫太郎という人は政治家としては三流だったかもしれないけど人間としては一流だった。だからこそ終戦という究極の目的を遂行できたのだと思う。
さて、祖父の遺品として僕の手元に遺された「鈴木貫太郎傳」。僕とこの人との距離感を近くする理由が実はもうひとつある。
この本の見開きページにはこんなサインがある。
鈴木内閣の国務大臣だった左近司政三のサインだ。この本を祖父に送ったことを記している。
なぜこんなことになったのかはわからない。それを知る人は全員あの世へ行ってしまった。
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