福井陸軍大演習の昭和天皇(4) -松尾伝蔵、岡田啓介そして鈴木貫太郎-

2014/10/8 水曜日

福井陸軍大演習の昭和天皇(3)-宮廷列車は福井へ-」の続き。

藤島神社ストリートビュー
(昭和天皇の藤島神社行幸写真とほぼ同アングルのストリート・ビュー by Google)

【その日の昭和天皇、そして松尾伝蔵】
昭和8年10月28日、昭和天皇の公務は午前9時から始まった。福井県県庁庁舎に設けられた行在所で福井県知事大達茂雄から県治概要の奏上、次いで福井市長大月斎庵から市勢概要の奏上を受けた。
福井行在所 単独拝謁室
(行在所の単独拝謁室=福井市記録より)
9時30分、地方功労者27名に「拝謁を賜り」、御紋菓(菊の御紋が入ったお菓子と思われる)を「下賜あらせられた」。その中に松尾伝蔵という名前があった。
松尾伝蔵
(松尾伝蔵の名前=「昭和8年陸軍特別大演習並地方行幸福井市記録」より)

昭和史が好きな人ならば「松尾伝蔵」の名前をみてピンと来る人もいるだろう。彼は海軍大将岡田啓介…二人とも福井県出身だった….の義弟で予備役の陸軍大佐だった。当時、福井県在郷軍人会分会長の職にあったことから功労者に選ばれたのであろう。その栄誉を胸に悠々自適の晩年を送ってもよかったはずだ。

この8か月後の昭和9年7月8日、岡田が内閣総理大臣になるとともに松尾は総理大臣秘書官となった。妻に先立たれた岡田の身の回りの世話をするために本人から志望したのだ。これが彼の運命を決めた。昭和11年の二・ニ六事件で反乱軍が首相官邸に突入した際、松尾は岡田を大浴場に隠したあと、様子を探りにでも行ったのだろうか、中庭の壁によりかかっているところを発見され、岡田首相と間違えられて射殺された。反乱軍に誰何(すいか)された際に「総理大臣だ」と松尾が答えたという証言もあり、身代わりになって死ぬ覚悟だったと考える者もいる。松尾の最後の言葉は「天皇陛下万歳」だったという。
岡田啓介・松尾伝蔵
(岡田啓介と松尾伝蔵。「襲撃隊は(松尾)大佐が老人でやや首相に似ているので、岡田首相を殺したものと誤認した。」=児島譲「天皇」より)

【藤島神社行幸祭と岡田啓介】
さて時計を戻そう。
松尾が地方功労者として菓子を賜っているのと同じ頃、義兄の岡田啓介海軍大将は藤島神社にいた。神社では午前8時45分から天皇を迎えるための儀式(行幸祭)を行っていたのだが、そこに参列していたのだ。いやむしろ自分の旧主である越前松平家の第19代当主松平康昌侯爵のお傍につき従ったというのが正解かもしれない。終戦で物事の価値観が大きく変わる前の時代、地域の縦のつながりというものは想像を絶するぐらい強固なものがあった。翌年の岡田内閣の成立に際して、貧しい岡田に対して金銭的な援助をしたのが松平だった。

さて、清められた境内では、神聖な方を迎えるための儀式が進行していた。佐藤 東(あずま)宮司により、手水(ちょうず)の儀、修祓(しゅばつ)の儀から始まり、奏楽が奏でられる中、社殿の扉が開かれた。次いで禰宜(ねぎ)によって神饌(しんせん)が供えられ、宮司の祝詞(のりと)が挙げられた後、幣物(へいぶつ)が供えられた。難しい漢字だらけだ。
写真撮影地点とアングル(推定)
(福井市記録に描かれた藤島神社境内の図。写真の撮影スポットと思われる場所…拝殿前の石畳が緩やかに左折するところ…には「チ 新聞記者写真班」と記されている)

藤島神社は標高116mの足羽山の中腹、山麓からだと一の鳥居をくぐって150段あまりの石段を登ったところにある。佐藤宮司、松平侯爵、岡田海軍大将、そして祭神の新田義貞と所縁の深い新田義美男爵らは一の鳥居で天皇をお迎えをするため石段を下り、9時40分に所定の位置で待機した。

【藤島神社行幸と鈴木貫太郎】
午前10時、天皇は「溜色の御料車」として親しまれた「メルセデス・ベンツ770グローサー」に乗り行在所を出発した。
行在所(福井県庁庁舎)を出発する昭和天皇
(行在所を出発する=「昭和8年陸軍特別大演習記念写真帖」より。天皇は最後部のシートに座っているので判別不可能)

歴史というのは不思議な交錯をする。朝9時から天皇の公務に侍立(傍につき従う)し、御料車にも側近として唯一人陪乗(同乗)している人物がいた。車中で後部座席に後ろ向きに座っている横顔のシルエットがそれだ。その人物とは鈴木貫太郎侍従長。
鈴木貫太郎・たか夫人
(鈴木貫太郎・たか夫人=「鈴木貫太郎傳」より)
海軍大将から侍従長になった鈴木は、昭和天皇の最も信任の厚い人物だったことは間違いない。鈴木たか夫人は天皇の幼少期(4~14歳)までの教育御用掛で、天皇が母のように慕った人物であったのと同じように、25歳で大正天皇を亡くした天皇にとっては父のような存在であっただろう。

この人もまた二・ニ六事件で反乱軍に襲われる。三発の銃弾を撃ちこまれた鈴木は血まみれになって床に倒れた。反乱軍指揮官の安藤輝三大尉は、兵が「とどめを」と言うのを制して引き上げた。倒れている夫の横にたか夫人が端然と正座して「とどめは私に任せて下さい」と言ったことに心動かされたのだろう。

一時は心臓も停止した鈴木だっだが奇跡的に息を吹き返して生還した。この時、彼がもし死んでいたら、その後の日本の運命はどうなっていたかわからない。鈴木は昭和20年に内閣総理大臣に就任し、昭和天皇と息のあった連携プレーで…..時には痛みを伴う狸芝居も打ちながら…..日本を終戦へと導いてゆくことになる。

福井陸軍大演習の昭和天皇(5)-自動車鹵簿(ろぼ)は進む、もしくは桐生事件のこと-」へ続く。