カセットテープ発掘(1) -ジョン・レノンの死-

我が家にある「カセットテープを発掘&デジタル化してみよう」企画第一弾。
今回は1980年12月の「ジョン・レノンの死」の直後に録音した一連の音源を紹介する。
ジョンの追悼番組を収録したカセットテープ

元ビートルズのジョン・レノンがニューヨークの自宅前で拳銃で撃たれて亡くなったのは1980年12月8日の23時すぎ(日本時間では9日13時すぎ)のことだった。たまたまレノンが担ぎ込まれた病院にバイク事故で手当てを受けていたWABC-TVのプロデューサーがいた。彼は何が起こったのかを把握すると即座に現在放映中の自局のスポーツ番組「マンディ・ナイト・フットボール」のプロデューサーにその事実を連絡、プロデューサーはいままさに生中継を行っているスポーツ・ジャーナリストのハワード・コーゼルにそれを耳打ちした。コーゼルはそれより6年前、ジョンがこの番組にゲスト出演した際に、インタビューを行ったことがあったのだ。

今もそうかもしれないが、スポーツ中継の真っ最中に別のニュースを流すことはタブーだったのだろう。
コーゼルは慎重に言葉を選んだ。「勝敗にかかわらず、私はこれがフットボールのゲームだという忘れてはいません。でも我々は言い尽くせない悲劇を皆さんにお伝えしなければなりません」と前置きした上で、ジョン・レノンの死の第一報を世界に伝えたのだった。

15歳だった僕がその悲報を受け取ったのは15時50分のニュースだった。
あんな衝撃は生まれて初めてだったと今でも断言できる。だけどその一方で「記録魔」というのは生来の癖だったのかもしれない。僕は18時のテレビニュースを皮切りに、この事件に関する様々な音を記録していった。

【1980年12月9日 事件直後にオンエアされたニューヨークのラジオ局"WPLJ"による追悼番組】

ニューヨークのロック専門ラジオ局「WPLJ」が、事件直後に放送した追悼番組。DJはジミー・フィンクという人。事件の一か月後ぐらいに、日本のラジオ局でオンエアされたもの。ジミー・フィンクが番組の最後に言葉をつまらせながら「ジョン・レノンは今日亡くなった。彼はニューヨークで殺されたんだ」と語る口調に事件の衝撃を物語っている。最後に日本のアナウンサーが「今では大変貴重なもの」と言っているから、33年後の今はどうなんだろう?とUPしてみた。(追記:この記事が縁でジミー・フィンクとfb友となりました。何とジミーと共通の友人の友人が私の友人だった次第)

【1980年12月9日 ジョン・レノンの死を伝える各社ニュース】

すでにこの音源の一部は3年前にUPしたことがある。その時のことは「ジョン・レノンの死を報じたニュース」にも書いている。今回は元のテープから再度デジタル化を行い、新たにニュース音源を追加して一本にまとめてみた。
(1)0:00~:18時のニュース(放送局不明)
ビートルズ世代の男性が「もう俺たちの時代は終わったんだよ」と言うのが切ない。
(2)4:39~:「ニュースセンター9時」
この日、最も時間をかけて事件を報道したのが、この「ニュースセンター9時」だった。
(3)15:54:(放送局不明)
「サインのしかたが悪かったので射殺された」説というのは、ビートたけしがギャグにするぐらい信じられていたけど、当初の報道では「そういう話もあるけど、計画的犯行だと考えられる」と冷静に報道されていたことがわかる。
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(むろん「サインを断られたから」説も間違い。事件の6時間前、犯人のマーク・チャップマンがジョンにサインをもらっている写真がある。この時ジョンがサインした「ダブル・ファンタジー」のレコードは、現在7200万円のプレミアがついているとか)

【1980年12月10日16時5分放送 NHK-FM 「軽音楽をあなたに」ジョン・レノン追悼番組 第一夜】

事件の翌日から2日間にわたって追悼番組をオンエアしたのはNHK-FMだった。
当時、夕方から「軽音楽をあなたに」という番組があったのだけど、その緊急企画として「不滅のビートルズ -ジョン・レノンをしのんで-」というサブタイトルで放送されたもの。その第一日目はビートルズ時代のジョンの作品を紹介している。

記憶ではカセットテープ2本に録音したつもりだったけど、どうしても2本目が見つからなかった。冒頭の「Imagine」とトーク部分のみを抜粋してみた。DJはチャッピーこと山本さゆりさん、水野美紀さん、そして滝真子さんの3人。この3人は日替わりのDJだったと思うけど、この番組のために一同に会している。
僕の知り合いにも沢山いるけど、当時「ビートルズ世代」と言われる人は20代後半~30代ぐらい。この人たちが若々しい世代だったんだなぁということが、彼女たちの言葉の端々から感じられる。そしてしゃべり言葉ですらこの33年で変化したことがよくわかる。
そして、この3人のトークは、あの時代あの瞬間の悲しみ、怒り、やりきれない気持ち、そういった空気をとてもよく凝縮していると思う。

1980年当時、「イエスタディ」「レット・イット・ビー」はポールの作品で「ひとりぼっちのあいつ」「ア・デイ・インザ・ライフ」はジョンの作品で...という具合にビートルズの楽曲のひとつひとつがジョンとポールによってある程度分担されていたことなど、あまり知られていない時代だった。事件の翌日というあわただしい中にもかかわらず、この番組の選曲がジョンの作品、しかも彼の代表的な作品をしっかりセレクトしていることには、今でも驚かされる。

以前、ロッキン・オンの渋谷陽一が当時のことについて「各局が追悼番組といって”イエスタディ”や"レット・イット・ビー"を頻繁に流す中で、我々は数日後の追悼番組で、きちんと(ポールの作品ではなく)ジョンの作品を流した」と言っていた。それは彼がDJをやっていた「サウンドストリート」だと思うけど、同じNHK-FMで事件翌日にきちんとこういう放送をしてことは、特筆すべきことだと思う。

【1980年12月11日 NHK-FM 「軽音楽をあなたに」 ジョン・レノン追悼番組 第二夜】

2日目はジョンのソロ時代。こちらは番組全体のテープが現存していた。その中からトーク部分を抜粋した。驚くのは11月17日にリリースされたばかりの「ダブル・ファンタジー」から1曲を除いて全曲をオンエアしていること。NHKにしては大胆だし、よくレコード会社も許したと思う(あっ、いちいち許可を取らないか)。ちなみにオンエアされなかった1曲とはヨーコの「Kiss Kiss Kiss」...そりゃあ放送コードに引っかかるに決まっている。

今から振り返ってみると、ジョンの死は自分にとってもひとつの分岐点だったと思う。
事件の後、ジョンは次第に「愛と平和の象徴」として祭り上げられていった。今ではその「下手人」が誰かも知っているけど、当時の僕はそのことに違和感を感じ、次第に彼を追い求めることを止めてしまった。
そして「ビートルズがすべてじゃない」という青臭いアンチテーゼを羅針盤にして、様々な音楽への旅をするようになっていった。そして、それは今でも続いているんじゃないかな。

(※1)驚いたことにこの時のニュースがYoutubeにアップされていました

こちらもご覧ください
ジョンレノン追悼集会 at 日比谷野外音楽堂(1980/12/24)