「戦後70年 千の証言スペシャル」と湯の花トンネル列車銃撃事件
僕は戦後20年という年に生まれて、その余韻の中で育った。
1972年頃、関内駅前にはドブ川(大岡川の支流か?)があって沈船がわずかに舳を水面に露出していた。嘘か本当か「あれは空襲で沈んだものが放置されているのだ」と人に言われた。
京急横浜駅と戸部駅の間にあった平沼駅は焼け落ちた鉄骨の屋根がそのまま放置してあった。当時はビルが少なかったから京浜東北線の車窓からもそれは象徴的に見えた。
小学校には、戦前から教諭をしていた人が何人もいた。戦時中に富岡小学校の教諭をしていた僕の担任は、富岡の空襲の話をしてくれた。銃撃してきた戦闘機の米軍パイロットと目があった話や、直撃弾によって大勢の方が亡くなった富岡トンネルの話はいまだに脳裏に焼き付いている。
たまに繁華街に行くと、いわゆる傷痍軍人の方々...片手がない方や、失明した方が.募金箱のようなものを首から下げていて、そこには「マレーシア戦線で負傷」なんていう文句が書かれていた。金銭を乞うていたのだろう。時間軸で考えれば今の僕と年齢的に変わらない方々だったと思う。
(新井踏切からみた湯の花トンネル列車銃撃事件現場。2007年9月17日撮影)
(圏央道の開通によって風景は変化した。2014年9月19日撮影。以下同じ)
もっと身近にも「戦争」の余韻はあった。
あまり多くを語らなかった祖父母たちの世代も、歴史が好きだった僕に対して岡山大空襲(父方の祖父)、仙台大空襲(母方の祖母が体験)の話をちらほらしてくれた。だけど母方の祖父が体験した銃撃事件に関しては、当人が1979年という早い時期に亡くなってしまったために、漠然としか伝わってはいなかった。
(スマホ撮影のため、画像が粗いのは勘弁)
ひょんなことからS叔父がこぼした言葉がきっかけで、祖父が太平洋戦争で最悪の列車銃撃事件に遭遇したことを知った僕は、一年をかけて「祖父と湯の花トンネル列車銃撃事件」という記事にした。2008年のことだ。
僕はこの事件を大勢の方が知ってくれたらいいと思って書いたのけど、僕自身や自分の子供たちにもしっかり伝えたいひとつの真実があった。
あの時、祖父がわずかに座る位置が左右にずれていたら、あるいは正面に座っていた母親が背負っていた(抱いていた?)赤ちゃんの位置に座っていたら....僕という人間はこの世に存在しない。ましてや子供たちは存在しなかった。人がこの世に存在するのは、それ自体が「奇跡」「偶然」と言えるものなんだ、という単純な真実だ。
(湯の花トンネル列車銃撃事件慰霊碑)
あの記事を書いてから7年近い歳月が流れた。
僕がこの事件を知るきっかけとなったS叔父は昨年亡くなった。
湯の花トンネルの銃撃現場では、ほぼ直上に圏央道と中央道が交差する八王子ジャンクションが完成している。
のどかな事件現場の風景と巨大な建造物が異様なコントラストを放っている。モノが動く時間はスピードアップしていて、まるで過去の出来事を遠くへ押しやるかのようにも思える。
(事件現場付近から見上げる八王子ジャンクション)
僕自身、しばしばこの高速道路やこのジャンクションを利用するのだけど、そういう時には便利さを満喫するいちドライバーとなっている。もちろん現場を通る時は必ず黙礼をするようにはしているけど、それは瞬間でしかない。
(慰霊碑碑文拡大)
そうそう、昨年はこんなことがあった。
僕の姉夫婦はアメリカに住んでいるのだけど、昨年の夏に一時帰国した姉の姪っ子たちを連れて、このジャンクションを通ったことがある。
この時、僕は彼女たち....アメリカで生まれ、アメリカで育ち、ネイティブなアメリカ人だといいって過言はない....に対して、この直下で起きた事件を説明した。アメリカ国民である彼女たちのアイデンティティを傷つけないようにしながら、かつ自分たちがなぜこの世に存在しているのか?ということを説明するためには、ひとつひとつ言葉を慎重に選ぶ必要があった。次の高尾山ICからは事件現場まではわずか10分足らずなのだけど、現場に連れて行くのは彼女たちがもう少し大人になってからだろうと思った。
(昭和25年に地元の青年団が建立した供養塔)
アメリカ人による銃撃から数センチの差で逃れた祖父、そのひ孫がアメリカ人であるということが「70年」という時間の流れなのだろう。
3月9日にTBSで放映された「戦後70年 千の証言スペシャル -私の街も戦場だった-」は、その「70年」という聳え立つ砂時計の砂山の中から、この「湯の花トンネル列車銃撃事件」を掘り出してミニドラマとドキュメンタリー形式ですくい上げてくれた。ありがたいことだった。
ドラマのモデルとなったのは、この銃撃で姉を亡くされた黒柳美恵子さんだ。事件の慰霊会の会長をされている。僕もお会いして体験を伺ったことがあるけど、眼前で肉親を失ったにもかかわらずその記憶に対峙し、この事件を伝えて行こうとする意志の強さに圧倒された。
(銃撃直後、一部の乗客が逃げ込んだ沢は、現在も線路の下を流れている)
ドラマの後半で美恵子さんの母親が何かにとりつかれたように姉の遺品となった血まみれのシャツを洗うシーンがある。
僕には事件の翌日にS叔父が目撃した祖父の姿とオーバーラップした。
8月6日の朝、疎開先の長坂(現在の山梨県北杜市)で目覚めたS叔父は、井戸でぶつぶつ独り言を言いながら血まみれの国民服を洗う祖父の姿を見ている。
番組の最終章では、中央本線の銃撃に参加したアメリカのパイロット「ジョン・ジョセフ・グラント大尉」の遺族を探し当てて、この人にフォーカスを当てている。そこでは息子さんへのインタビューと、パイロットが硫黄島の基地から本国の妻に送った何通もの手紙が紹介されていた。
このパイロットにも生まれたばかりの子供がいた。手紙の文面は妻や子供への愛情に満ち溢れた言葉で綴られている。そして祖父の眼前で頭を撃ち抜かれたのも赤ちゃんだった。頭を失った赤ちゃんを背負った母親の目撃談はいくつかあるが、慰霊碑にその名前は記載されていない。
(江戸時代のものと思われる祠があった)
手紙の中には、この湯の花トンネルでの銃撃に言及したものがあった。
電気機関車にけん引された列車を銃撃したこと。先頭の数両がトンネルに入った状態で停止したところを銃撃したこと。二度目か三度目の銃撃の瞬間に、列車から逃げ出す民間人の姿を見て、思わず銃撃するのを止めたこと。
(事件現場を横断する新井踏切。今は上り列車が通過する)
軍人パイロットとして従軍すれば、爆弾を投下したり銃撃するのが、その人に与えらえた役割となる。僕だってそういう役割を与えられたら、それを全うするだろう。たが、その前に誰もが一人の人間であることに変わりはない。
(湯の花トンネル。右側のトンネルが事件現場)
爆撃機による空襲では、主に夜間に高高度からの爆撃を行った。ちょうど70年前の3月10日の東京大空襲では、一晩で10万人以上の人が亡くなっている。高高度から見下ろすと見えるのは暗闇の中で点滅するように燃え上がる炎だ。その炎の中で死んでゆく10万人の人々の苦悶の表情ではない。表情が見えないからこそ躊躇することなく、人は与えられた役割を全うできたのだろう。一人の感情を持った人間であることよりも、その役割の方を優先できたのだろう。
地上すれすれまで近づいて銃撃を行う戦闘機パイロットだったグラント大尉は、決してそうではなかったようだ。僕の小学校の先生は「爆撃機のパイロットと目が会った」と語っていたが、彼には自分が銃撃しようとしていた人々の表情が見えてしまっていた。
グラント大尉は日本の空を飛びながら、日本の美しさを感じている。田畑が広がってぽつんと小さな神社がある風景を彼は妻に「美しい」と手紙に綴っている。彼の視界には逃げまどう日本人の姿も映っている。そこには同じ人間がいた。
(事件現場に至る道で)
彼のこういう手紙で、番組は終わった。
ダメだ
あの人たちを銃で撃つなんて
僕にはできない
幼い子どもたちと
わが子の姿が僕には重なって見える
戦闘機のごう音におびえて小さなこどもたちが
母親 父親のもとへと走ってゆく
僕の機銃で簡単に吹き飛ばせるような
おんぼろの小さな家に走ってゆく
ちくしょう
戦争は地獄だ
残酷で冷たくて
犠牲はあまりにも大きい
人ひとりがこの世に存在すること自体が奇跡的で偶然的なのに、それに気づかず相も変わらず戦争は続いている。奇跡同士が殺戮しあっている。
他人を殺戮する役割など与えたくもなければ与えられたくもないと思っているけど、勝手に役割を担って人を殺めるヤツもいれば、それを自分に向けてしまう人もいる。
生きたくても生きられなかった大勢の人たちがいる。
4年前の震災でも70年前の東京大空襲でもこの銃撃事件でもだ。
祖父の眼前で頭を撃ち抜かれた赤ちゃんもその一人だった。その死は赤ちゃんのみならずその後につながるはずだったすべての命を絶ち切ってしまった。
この人たちのことを忘れないようにしよう。
この人たちの犠牲の上に、今の自分がいるのだと感じよう。
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