福井陸軍大演習の昭和天皇(1)-発端-

歴史の切れ端

【発端】
平成21年に祖母が亡くなったあと、僕の手元には祖父宗澤万寿夫(ますお)のアルバム数冊が遺品として残された。戦前に撮影された分だけでもゆうに700枚を超える写真の数々だ。
僕の祖父(右)
(右が祖父。右下に「SHISEIDO FUKUI」と刻印があることに注意)

意外かもしれないけど僕がこれを見るのは初めてだった。その理由が僕にはわかる。本当の祖母と言える人は昭和22年に風邪をこじらせてあっさり亡くなってしまった。今の祖母はその2年後に再婚した人だからだ。おそらく祖父は過去の思い出を封印することで、これからの伴侶と共に歩む決意をしたのだろう。だからこれらの写真は散逸することもなく押入れの奥で60年以上も眠り続けていた。

初めてみる若い祖父の姿、赤ん坊や幼少期の親父の姿が新鮮だったのは言うまでもない。
だけどそれ以上に驚いたのは、こういった写真の数々だった。
上海市内を行進する日本軍
(上海の「大世界(ダスカ)」前を進軍する日本軍=撮影者不明。手前の男性は「同盟通信」の腕章をしていると思われる)
天津を行く日本軍戦車
(天津の日本人租界を行く日本軍戦車=祖父撮影)
祖父の写真 天津
(憲兵?がこちらにやってくる….逃げ出したくなる=祖父撮影)

他にもある。日本軍の将軍たちの集合写真もあれば、憲兵隊に捕えられた抗日ゲリラの写真もある。昭和14年の天津水害の写真もあれば、中国人捕虜が作業している写真もある。
祖父が自分のドイツ製ツァイス社のカメラ(Super Semi IKON)で撮影したものもあれば、仕事がら入手したと思われるものもあった。
祖父のSuper Semi IKON
(祖父のSuper Semi IKON。まだ動くはずだ)

たしかに僕という人間は歴史….特に昭和史が好きで「下山事件資料館」はもちろんのこと、このブログでも頻繁に記事を書いている。だからといって日常生活で「昭和史」と一緒に暮らしているわけではない。突如として日常生活に「どうも~」と「昭和史」さんがやってきて、しかもこれが身内だったりした場合には「快哉を叫ぶ」というよりは、むしろ当惑するというのが当たり前の反応だろう。でも、考えてみれば祖父だったら「これ」をやりかねない人ではあった。何かと収集家(コレクター)だった祖父の血は、間違いなく僕にも流れている。

【祖父は何をやっていたか?】
岡山生まれの祖父が「新聞聯合社」という通信社に就職したのは昭和5年のことだった。祖父はここで「主に経済・金融記事を担当していた(親父談)」。
そんな祖父の最初の勤務先は京都だった。アルバムには当時の写真が残っていた。
新聞聯合社 昭和5年
左から二番目、蝶ネクタイに白の短靴で気取っているのが祖父だ。これは余談だけど、祖父の叔父さんに京都へ養子に行った楢林兵三郎というお医者さんがいた。祖父はこの人の家に下宿していたらしい。食べるものや住むところに困らなかった祖父が独身貴族を謳歌していたことが伺える。

なお、撮影場所は京都日日新聞社(現京都新聞社)の屋上だとわかる。新聞聯合は大手新聞社の出資による非営利の新聞組合だったそうだから、おそらく事務所もこのビル内にあったのだろう。

この会社が国家代表通信社(National News Agency)を必要とする国策上の理由から同盟通信社へと発展してゆくのは昭和11年のことだ。

【アルバム】
そんな祖父のアルバムのうち、時系列的にみて一冊目となるものがこれだ。
祖父のアルバム
全66ページの分厚いものだ。革張りの表紙にはメソポタミア神話の「アヌの神」がエンボス加工されている。なかなか立派な装丁だ。

そんなアルバムを開いたら、いきなり登場したのが昭和天皇の写真だった。
祖父のアルバムの昭和天皇
祖父のアルバムの昭和天皇
天皇の写真は3枚あった。神社に行幸(御親拝とも言う場合もある)した姿、人々が最敬礼する前を進む姿、そして騎乗の姿だ。どれも軍服を着用している。ちょうど葉書ほどのサイズだけど、正真正銘の生写真だ。

残念なことに写真にはキャプションがない。だから撮影場所も撮影時期も入手経路もわからない。わからなければ解明してみたくなる。
これもまた祖父の血を受け継いでいるんだろう。なんだか祖父から「この写真を解明してみぃ」と言われているような気分になってきた自分がそこにいた。

福井陸軍大演習の昭和天皇(2)-撮影場所の特定-」に続く。

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