炎の下で ~祖父が岡山駅で体験した岡山大空襲-

歴史の切れ端

岡山での親戚の法事を終え、その夜は岡山市内に一泊した。
翌16日はレンタカーを借りて県内を東へ西へと200km走った。
このことは、いずれ記事にしよう。

岡山駅前のレンタカー屋さんに車を返却したのは16時50分ごろ。
そして荷物を抱えながら駅へ続くエスカレーターを昇っていったところで、否応なしにこの看板が目に入った。

「岡山戦災の記録と写真展」。
この看板のある建物...岡山駅と直結している「岡山デジタルミュージアム」で開催されているらしい。

僕は前回の記事「夜の岡山駅にて」で、祖父から語り伝えられた岡山大空襲のことを記事にしたばかりだった。僕の祖父は、昭和20年6月29日の深夜、乗り換え待ちの岡山駅で(あるいは岡山駅付近で空襲警報が発令されて列車が停止した可能性もある)岡山大空襲に遭遇した。祖父を含めた乗り合わせた旅客たちは駅員たちと消火につとめ、おかげで岡山駅駅舎は焼失を免れたと聞いている。

(戦前の岡山駅)

そうしたらこれだ。
なんという偶然だろう。

しかも開催日を見たら今日が最終日で18時終了とある。
新幹線の出発は17時49分だから、若干だけど時間に余裕がある。
これは見るしかない、と思った。

立派な館内には、予想以上に大量の展示品や写真パネルが展示してあった。
戦時下の岡山県民の生活、出征兵士の見送り風景、勤労動員の模様....と展示は続いて行き、いよいよ空襲のコーナーに来た。

展示されているパネルの中に、これと同じ写真があった。

岡山空襲の最中に撮影された航空写真である。
米軍によって撮影され、現在アメリカ国立公文書記録管理局(NARA)が所蔵している。
近年発見されたものだと、解説にはあった。

深夜の空襲(午前2時43分)だったから、闇の中に浮かび上がる炎(白く見える点の部分)と、立ち込める煙だけが移されている。炎が点在しているように見えるのは、焼夷弾がひとつひとつの民家を炎上させているからだろう。

会場ではこの写真に対して位置関係を示した地図も紹介されていた。
それによると写真の左上部分が岡山駅、そして右下部分が宇野線の大元駅らしい。対角線の実距離が1km程度の航空写真となる。

(左上部分を拡大)

僕はその左上の部分を食い入るように凝視していた。

「この炎の下に、おじいさんがいるんだ....」

それは今まで経験もしたことのない感覚だった。

祖父から聞いた話から想像していた光景、それをはるかに上回る業火。
その中で「今まさに」祖父が必死になって消火活動を行っている....
そんな時間を超えた不思議な感覚だった。

そして、もうひとつ感じたことがある。
通りすがりの旅客までその場に踏みとどまって消火活動をせざるを得なかった状況とは、どんなものだったのだろう?ということだ。
空襲下にピンポイントでひとつ場所に留まり続けたというのは稀有な例だと思う。だからこそ67年を経た今ても「この炎に下にいるんだな」という感慨を得ることができるわけだけど。

ここにひとつの地図がある。
国立公文書館所蔵の「戦災概況図岡山」という地図だ。

(「戦災概況図岡山」)

岡山駅周辺は、すべて焼失している。
祖父には逃げる場所などなかった。
ここに踏みとどまり、文字通り自分の身にかかった火の粉を振り払うことで、自分の運命を切り開くしかなかったのである。
また、父は祖父からこんな話を聞いている。
「駅の職員といっても、男は兵隊にとられて女性ばかりだ。彼女たちがバケツリレーで消火するのだけど、水をかけるにしても腰が入っていない。時間も時間だから駅にいる乗客も少ない。結局、音頭を取るしかなかった」

ふと時間を見ると、新幹線の発車まで15分を切っていた。
僕にはここに踏みとどまる時間はなかったけど、見るべきものは見た。

この偶然は祖父がそう仕向けたんだろう。そう信じたい。

【追記】「夜の岡山駅にて」で書いたように消火活動を終えた祖父は、駅に荷物を預けたのち手ぶらで20kmの道のりを故郷(玉島)まで歩いて帰ったそうだ(父の話)。おそらく翌日、運行を再開した汽車で岡山駅まで荷物を取りに帰った祖父は、あるものを一緒に持ち帰ってきた。それは焼け落ちた岡山城天守閣の瓦だったそうだ。「池田藩の家紋が入った瓦だった」と親戚の方が話してくれた。なんかこういう所に「血」を感じてしまう。

P.S.この6月29日の空襲から37日後の8月5日、今度は母方の祖父が九死に一生を得ている。詳しくは「祖父と湯の花トンネル列車銃撃事件」を参照されたし。

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