林家彦六(八代目正蔵)師匠の家

たった一度だけ高座をみた。その経験が年を経るごとにこの人を大きな存在にしています。落語家の林家彦六、いや「八代目林家正蔵師匠」と言った方がいいでしょう。

高校一年の時、ふらっと行った国立劇場演芸場。
たまたま出演していたのが師匠でした。それは昭和56(1981)年9月定席公演中席(9月11日~20日)でした。この時の事は6年前に「林家彦六(八代目林家正蔵)の高座をみた話」という記事に書いています。

蝶花楼馬楽時代 の師匠

師匠の事は以前から知っていました。テレビで師匠が「マリオネット落語」というのをやっていたからです。ネタは「怪談牡丹灯篭」だったと思います。操り人形と会話しながら噺が進んでゆくんです。

人形「大家さん、てえへんだてえへんだ!」
師匠「おや、八つぁん、どうしたんだい?」
人形「裏のご浪人なんですがねぇ」

という具合でした。面白い事にチャレンジする方だなぁと思っていたので、印象に残っていたのです。

実際に生でみた師匠はフニャフニャしゃべるおじいさんで「大丈夫かぁ!」と思ったものです。

(枯れているのに超越した生命力を感じる師匠の「ぞろぞろ」)

でもそれだけではありません。たった一度の高座が自分の中で意味を持ちだしたのは、師匠の自伝「正蔵一代(青蛙房)」を読んでからでした。師匠は弟子入りの時の事をこんな風に書いています。

噺家になったのが、数え年で十八の時です。
のちに三代目の圓遊になった伊藤金三という人が、三遊亭三福といっていました。そこへ弟子に行ったんです。

正蔵一代

のち三代目三遊亭圓遊となる「三遊亭三福」は 大正2年(1913年)8月 に「三遊亭金三」に改名していますから、師匠が弟子入りしたのはそれより前となります。

弟子入りした年の年号は、はっきりおぼえてないんですけどね、十八の春なんですよ。(中略)あたしは十八でなった。その時分はもちろん数え年ですから、繰ってみると明治四十五年ですかねェ。なんでも春には間違いないんですよ。(中略)すると、その夏が明治天皇のご諒闇で、明治四十五年が大正元年に変わったわけなんでしょうけども、そこンとこは、どうもはっきりとおぼえてないんですねェ。よっぽどふわふわ暮らしてたんでしょうねェ。

正蔵一代

師匠は、1895年(明治28年)5月16日の生まれですから、 「十八の春」というのはちょうど1912年(明治45年)の3月とか4月頃と考えていいでしょう(数え年では生まれた年を1歳として、翌年の正月を2歳と数えます)。ちなみにこの時期、満年齢では16歳だったことになります。

そう、「ふわふわ暮らしていた」師匠の記憶に間違いがなければ、僕は希少な「明治時代の落語家」の高座を見たことになるのです。

それから2か月足らずの1981年11月7日、日本橋たいめい軒での「一眼国」が師匠にとって最後の高座となりました。そして翌1982年1月29日に師匠は亡くなっています。ギリギリの貴重な体験でした。そんな感慨が、僕の中で師匠を大きな存在にしているのです。

師匠の落語は決して「爆笑落語」ではありません。淡々と語る感じです。かといって高尚ではない庶民の落語なんです。本人の雰囲気もあるのでしょう。クスっと笑えるおかしさがある、そんな語り口が好きなのです。それは師匠の質素なお宅と一緒だったのでしょう。

四軒長屋(林家彦六宅)跡。

今でこそ「東上野5丁目」なんていう味気ない地名になってしまいましたが、戦前の住所は下谷区北稲荷町三十三番地。「稲荷町の師匠」という呼び名がふさわしいこの地に、師匠は1937年(昭和12年)から亡くなるまでの45年間を暮らしました。

建物は四軒続きの長屋でした。ちょうどこの駐車場のある場所にすっぽりおさまるように「四軒長屋」があったのです。ここには5台分のスペースがありますから、車幅にして1.5台以下という窮屈な家に師匠は住み続けたのです。

黒い乗用車が駐車している区画が師匠のお宅、隣接する建物はかなり手が加えられているが当時のもの。米屋さんだった。

師匠の家は一番東側。ちょうど黒い車が駐車している区画が、師匠のお宅でした。1階が2間、2階が2間というコンパクトな住まいでした。

昭和20年12月発行「戦災焼失區域表示帝都近傍圖 (日本地図株式会社)」より。
中央「北稲荷町」の「北」と「稲」の文字の間ぐらいが師匠のお宅。道路一本隔ててギリギリ焼け残っている。

戦時中、警防団の副分団長として東京大空襲に直面した師匠は、「このひとつ先のとこまで燃えてきたのを食い止めたのは隣組のおかげ。 隣の米屋もしっかりした人でしたし 、家持ちも多かったから必死だった」という意味のことを「正蔵一代」に書いています。

特には触れていませんが、お向かいに同潤会上野下アパートメントがあったことも、大きな防火帯になったのでしょう。残念ながらこの建物も2013年に取り壊されてしまいました。

なお「稲荷町の家」のリアリティは「八代目正蔵戦中日記(青蛙房)」を読むのが一番よいでしょう。昭和16年から終戦までの師匠の日記なんですが、この家を軸に、落語家としても警防団の一員として活躍する師匠の日々、 怒りっぽくて「トンガリの正蔵」と綽名された師匠の 日々を、鮮やかに感じることができます。

これは余談ですが、講談落語協会会長で東京大空襲で亡くなった六代目一龍斎貞山の遺体を引き取り、諸々の供養の手配をしてゆくくだりは興味津々の内容でした。

六代目一龍斎貞山

四軒長屋のあった場所と細い路地を挟んで、二軒長屋が現存しています。この建物の右側の区画に住んでいたのが「留さん文治」こと九代目桂文治師匠(1892-1978)でした。

彦六師匠とは芸風は異なりますが、文治師匠も味のある落語家です。
この人はケチで有名で、間口では五軒お隣となる彦六師匠の冷蔵庫を借りていたとか、新聞を読みに来ていたとか。でも文治師匠の家は持ち家、彦六師匠の家は貸家でした。

その住まいは文治師匠の養子となった「南京たますだれ」の翁家さん馬師匠が引き継いだのですが、師匠も2008年に亡くなられました。今でも表札がかかっています。

なお、長屋が現存していた時代の風景は、二村高史さんのサイト「二邑亭駄菓子のよろず話」に1984年当時の貴重な画像が紹介されています。

この建物、現存する数少ない「落語物件」です。
何とか保存して欲しいものです。