昭和19年 宮城県柳津への旅 [01] -上野駅-
昭和19年6月23日の夜7時過ぎ。
上野駅中央改札前の待合広間に、とある三人の姿があった。
小柄で実直そうな20歳前後の女性、彼女は大きなリュックサックを背負いながら6歳ぐらいの女の子の手を握りしめていた。モンペ姿におかっぱ頭のその子は、旅に出る楽しみと不安とが入り混じった表情で、駅舎の高い天井を見上げていた。

そしてもう一人....国民服を着た40代半ばの男は二人を見送りに来たようだ。
「のぶちゃん、恭子のことをよろしく頼む」言うと、"のぶちゃん"は女の子の頭を撫でながら「叔父様、まかせて」と笑顔で答えた。
男は"恭子"と呼ばれる女の子の父親で、"のぶちゃん"の叔父さんだった。

戦局の悪化とともに、鉄道事情は逼迫していた。
旅客よりも貨物の輸送が優先され、国民には「旅行の自粛」が求められた。4月からは遠方に行くのに旅行証明書が求められるようになった。それでも後を絶たない旅客以上に列車本数が削減されたため、列車はいつでも満員すし詰めの状態だった。
19時20分、夜行列車の改札がはじまる。
人々は何とか席を確保しようと列車へと走ってゆく。
のぶちゃんは初めから諦めた体で、女の子の手を引いてゆっくり歩きだした。
改札口の向こうから男が言う。
「前方の車両に乗れば、宇都宮あたりから座れるかもしれない」。
その声に振り向いた"恭子ちゃん"は、ちょっと悲し気な顔をした。
20時上野発の東北本線青森行き107列車は間もなく発車しようとしていた。
二人の行き先は宮城県の柳津(やないづ)、石巻から真北に15キロ、北上川に面した鄙びた町だ。
そこは"のぶちゃん"の故郷であり、男の故郷でもあった。
そして女の子..."恭子ちゃん"にとって、そこは明日からの疎開先だった
それから76年が過ぎた。
今年82歳になる"恭子ちゃん"....僕の母は、柳津時代の事をほとんど語る事のないまま、老人特有の症状になってしまった。沢山のことが記憶の彼方へと去ってしまった。
“恭子ちゃん"を一人で柳津に疎開させた….
同じように岡山へ縁故疎開の経験がある父は、この事を長年謎に思っていたらしい。
母はまだ国民学校初等科へ就学前だった。
6月30日に決定された「学童疎開促進要綱」は、低学年は学童疎開の対象とはせず、3年生以上を対象としていた
いくら縁故疎開だといっても、6歳になったばかりの女の子を親兄弟から離して疎開させるというのはちと可哀そうな気がする。

その答に近づく資料が見つかったのは、平成19年(2007年)5月の事だった。僕の祖母が亡くなった。97歳の大往生だった。そして、遺品として祖父の膨大な日記が僕に託された。
祖父は名は小野寺五一(おのでらごいち)。親戚は親しみを込めて「ごいっつぁん」と呼んでいた。昭和54年(1979年)に80歳で亡くなったが、昭和19年(1944年)当時は貴族院書記局(現在の参議院事務局)職員として働いていた。
当時の祖父のポストは警務課長。これは企業における総務課にあたるようだ。
「守衛の管理」「防空・防衛」に関する事を頻繁に書いている。
自宅は世田谷九品仏の貸家だった。祖母と二男一女の五人家族だったところに、昭和18年3月になって男の子が生まれている。

育児だ何だと人手が足りなかっただろう。柳津の本家から応援に来てくれたのが姪の"のぶちゃん"だった。
柳津には先祖代々の家があったが、唯一の跡取りだった祖父が若いうちに東京に出てしまった。そのため祖父の姉が婿養子をもらって家を守っていた。
“のぶちゃん"はその姉夫婦の次女だった。
大正12年(1923年)2月生まれというから当時は21歳。戸籍上の名前は"のぶ子"だが、祖父の日記では"信子"と書かれている事が多い。
祖父は、この機転の利く姪を大変気に入っていたようだ。
日記を読むと、晩酌につきあわせたり、散歩につきあわせたり、女学校に行かせようとしたり、お見合いの話が来たりと頻繁に登場する。
そして"のぶちゃん"は、幼なかった母を大変可愛がってくれたのだった。

一緒に写っているのは仙台の曾祖母だと思う。
祖父の日記には、一見すると平穏な日々が綴られているが、物事をかなり悲観的に捉えていた事が端々から感じられる。戦局の悪化に対する不安は常に綴られていたし、何よりも肉親の死が大きく影響していたようだ。
実は前年11月に母(まさ)を亡くし、この年の4月に父(新六)を亡くしたばかりだった。葬式のため柳津に戻った祖父は、一切合切を終えた後の日記に率直にこう書いている。
東京にも帰りたくない。出世もしたくない。そう云う気持ちなり
小野寺五一日記 -昭和19年4月19日
今日帰らんとしたるも帰る気にもなれずその侭(まま)となる。
小野寺五一日記 -昭和19年4月20日
それでも帰る場所は東京しかなかった。
東京という所は祖父にとって多少なりとも「出世」に縁のある場所であったかもしれない。だがそこは「戦局の悪化」という情報の洪水に押し流されそうな場所でもあり、「死」に繋がりかねない場所でもあった。

6月15日、米軍はついにマリアナ諸島サイパン島へと上陸を開始した。もしサイパンを占領され、アメリカ軍の新型爆撃機B-29を配備されれば、東京を含めた日本本土の半分が空襲圏内に収まることになる。
それは東京、名古屋、大阪といった主要都市への空襲や意味し、日本の戦争継続能力の大幅な低下を意味し、死と隣り合わせの日々を送る事を意味していた。

夕方少し早く帰りたる。六時に家に到着したる頃、役所より電話あり。
昭和19年6月15日の日記
〇〇警報発令せりと云う。サイパン島に上陸したるものらしとのことなり。
そして翌16日、サイパン島の上陸と示し合わせたかのように、中国の成都を飛び立ったB29の編隊75機が福岡の八幡に襲い掛かった。
これがB-29による初の本土空襲であり、以降相次いで行われる本土空襲の先駆けとなった。

朝中野君より電話あり、左近司氏に会いたる由なり
昭和19年6月16日の日記
敵機九州に来て撃墜七機撃破三機と云うことなり
火災もありたる由なり。
サイパンは目下激戦中とのことなり。武運の長久を祈るや切なり。
今夜は当直することにする。八時ごろにぎり飯一個が出る。
サイパン島への米軍の上陸と八幡空襲に衝撃を受けた事は間違いないだろう。
早々と柳津の姉から手紙が届いたのは6月19日の事だった。

正午、木造船調査委員会の招待あり、又午前十時より水池さん来たりて防空の御話をする。
昭和19年6月19日の日記
四時頃警報解除となる。
サイパン上陸のこと頻りと心にかかる。今夜は久しぶりにてユッタリとした気持ちとなり、早く床に入る。
(中略)姉より信子をかえしてくれと云う手紙なぞくる。

村上君に電話する。昨夜の雨がカラリと晴れて頗る気持ちよし。
昭和19年6月21日の日記
信子帰郷につき、色々と準備する。
恭子も連れて行くことにする。
この文面からは、母も疎開するに至った経緯が判然とはしない。
母の記憶がまだしっかりしていた頃、僕はその理由を尋ねた事がある。
母はこう答えた。
自由が丘に空襲があって、大きな爆弾を落ちた。これはいけないとあわてて、私だけ疎開した。
残念ながらこれは母の記憶違いだ。
自由が丘に空襲があったのは、昭和20年になってからのことだからだ。
判然としない謎を残したまま、いよいよ"のぶちゃん"と"恭子ちゃん"の疎開の日がやってきた。
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