旧大河内橋(静岡)と道路ネットワークを夢見た内務省官僚の話

新東名新静岡ICで降り、ひたすら県道29号線(梅ヶ島街道)を北上する途中で、この橋と出会いました。
名前は『大河内橋』。いや正確には『旧大河内橋』と呼ぶのが正しいかもしれません。

昭和26年(1951年)の架橋ですから、もう70年という年齢です。

静岡 旧大河内橋
旧大河内橋

この橋、南アルプス南東端の身延山地(大谷嶺と八紘嶺)付近を源流とする安部川に架かっています。
もともと安部川の上流は『大河内川』と呼ばれていたようです。名前の通りなのでしょうか?かなり上流で行っても川幅が広いのが特徴です。

これには理由があります。源流となる大谷嶺には「日本三大崩れ」と呼ばれる「大谷崩」があり、今でも大崩壊を続けているのです。

大谷崩
大谷崩

それだけじゃありません。安部川上流では、所々で山が崩れ落ちた形跡が見られます。
長い時間の中で、崩れ落ちた土石が下流にどんどん堆積していったのでしょう。
新静岡ICから山側へと1時間近く車を走らせても、相変わらず川幅が広いままなのが印象的でした。

さてこの大河内橋、昭和26年に架橋されたようですが….

架設後約70年が経過したことによる老朽化や、幅員が狭く、すれ違いが困難な状況であること、また河川の増水による被災を受け、昭和58年の台風の際には、橋脚が傾き、大規模な災害
となりました。

静岡市報道資料

そういう事情によって、新たに橋脚のない「ニールセンローゼ橋」という形式で新大河内橋が開通したのが2021年3月28日の事でした。

静岡 旧大河内橋
新しい大河内橋と旧橋

新しい橋ができたなら、旧橋など即撤去となりそうなものです。
おそらく予算の関係でしょう、橋の左岸側は取り壊されたものの右岸はそのまま残存している。それが10月3日時点の状況でした。

静岡 旧大河内橋
左岸だけ撤去されている。

ちょっと柵を越えて、橋の先端までお邪魔させて頂くことに。

路面は昔ながらのコンクリート舗装だったようですが、随分石砂利の混ざった荒い目だなぁと思いました。昔の橋がこういうものなのか、そもそも橋のコンクリート舗装ってこういうものなのかがわかりません。

静岡 旧大河内橋
旧大河内橋の路面

よく『橋を渡る』と言い方をしますが、こうした橋の場合『渡る』という表現をしていいんだろうか?一休さんの頓智話に『このはしわたるべからず』というのがあって、一休さんは真ん中を堂々と渡るわけですが、果たしてこの橋ではどんな頓智を駆使するんだろう?そんなどうでもいいことを思いました。

静岡 旧大河内橋

私は決して高所恐怖症ではありませんが、橋の先端から下をのぞき込むのはさすがに勇気が要りました。
このへんで勘弁して下さい。

静岡 旧大河内橋
旧橋の先っちょから見下ろす。

下流側の欄干の切断状況です。
「半分は解体したからね、あとよろ」という解体工事関係者の声が聞こえてきそうな、見事な切断ぶりでした。

静岡 旧大河内橋 下流側の欄干
下流側の欄干
見事に切断されている欄干

上流側の欄干はといえば無理やり剥ぎ取った感じです。

静岡 旧大河内橋 上流側の欄干
上流側の欄干

気になったのは、河川の中央に謎のコンクリートブロックがいくつか埋め込まれていた事です。

静岡 旧大河内橋付近の川底ブロック
旧大河内橋付近の川底ブロック

おそらく昭和58年台風で橋脚が傾いた際、修復工事で設置されたのではないかと思います。
修復工事現場の保全、いや橋脚そのものを保全するためのブロックだったのでしょう。

こういうモノも、この橋がこの世から消えてしまった日には「何のためにあったのか?」ますます分からなくなってしまうのでしょう。
自分は「何のためにあったのか?」考えるのは好きですし、それを掘り返すというのが、このblogのひとつのテーマであると思っています。

さて、新大河内橋の完成で旧大河内橋がこの世から消滅するというこの場所で、もうひとつしたたかに現存している遺産があります。
それがこれです。

旧大河内橋の遺産
旧旧大河内橋の遺産

これは昭和26年以前の大河内橋の残存物だという事は容易に想像がつきます。
形状からすると、吊り橋のようなものだったのかもしれません。実はここより上流へ行くと簡易的な吊り橋が多数あるんです。
対岸の畑へ渡るための橋、個人の家のために作られた橋。そういうのです。

上流に崩壊地がある。橋脚のある橋を築いてもいずれ壊されてしまう。吊り橋というのは現実的な対応だったと思います。

いつ頃架橋されたものなのか?それが気になる所ですが、建設年代を記す何もないので、とりあえず現存する扁額を撮影してみました。
右から『大河内橋』と書かれた文字の横に縦書で文字が確認できたからです。

旧大河内橋扁額

帰宅後、画像ソフトを使って文字を解読してみることにしました。
まずは該当部分を切り取って拡大してみます。

旧旧大河内橋扁額拡大
銘板の文字部分

うーむ、わかりません。画像ソフトで加工してみます。

旧旧大河内橋扁額拡大

何とか判別できたのは、一文字目が「長」、二文字目付近が判読不明、最後は「久一書」と書かれているという事でした。
あとは手探りのカンです。こういう県道の橋梁の書を書く人は、もしかしたら戦前の静岡県知事じゃないかな?と考えたのです。

ダメモトで戦前静岡県の歴代知事を調べてみます。
こういう時に大変役立つのが「日本の歴史学講座」さんサイトの「戦前都道府県知事総覧」です。

戦前の日本は内務省が絶大な権限を持っていました。「地方自治」というのは現在の憲法下で作り上げられたもので、当時はそうではありませんでした。県知事や市長は選挙で選ばれるのではなく、内務省の官僚が人事異動で赴任していたのです。

ちょっと話は脱線しますが、現在リニア新幹線静岡工区の問題があります。静岡区間にトンネルを掘るにあたっての湧水問題で、静岡県が工事再開を認めない。
こういう問題も戦前は「国策である」の一言で工事を強行突破できたことでしょう。内務省はそれだけ絶大な権力を持っていたのです。

「あればいいな」とドキドキしながら静岡県の知事一覧を追ってみたら...ビンゴでした。

昭和2(1927)年5月17日から昭和4(1929)年7月5日までの二年間、静岡県知事だった人物に『長谷川久一(はせがわきゅういち)』という人物がいるではないですか。
おお、そう言われてみると、確かに判読困難だった部分は『長谷川』と読めます。

長谷川久一 人事興信録
人事興信録 第8版(1928)

この方、内務省土木局長になった時期もあるようですが、県道の橋梁の扁額を書ける立場を考えると、県知事だと考えた方が妥当です。
昭和3年の秋に昭和天皇の御大典があった関係で、全国で「御大典事業」として数多くのインフラ整備が行われました。旧旧大河内橋がこの人の在任期間(昭和2年~昭和4年)に架橋された可能性は高いです。

3つの大河内橋 静岡
3つの大河内橋

年代が絞れたなら、と思いつつ「土木学会付属図書館デジタルアーカイブス」を調べてみたのですが、こうした地方の小さな橋梁の竣工情報までは期待できそうもありませんでした。私はこの橋の架橋を昭和3年頃だったと考えています。

さてこの長谷川久一さん、長崎県知事から静岡県知事となったようですが、昭和4年7月5日以降は「休職」となっていました。
そして復帰後の昭和6年12月18日から東京府知事に就任していると思いきや、任期一カ月にも満たない翌7年1月12日に警視庁総監に就任し、それからわずか2週間後の1月28日に辞職(依願免本官)しています。

長谷川久一
長谷川久一 – Wikipediaより

実は静岡県知事の任期2年というのは比較的長い方でした(当時の内務省の人事サイクルとしては平均的)。
ちょっと彼の異動を時系列で追ってみましょう。

石川県知事 :大正12(1923)年10月25日~大正13(1924)年6月24日:約8か月
和歌山県知事:大正13(1924)年6月24日~昭和2(1927)年3月22日:約2年9か月
長崎県知事 :昭和2(1927)年3月22日~昭和2(1927)5月17日:約2か月
静岡県知事 :昭和2(1927)年5月17日~昭和4(1929)年7月5日:約2年2か月(以後休職)
東京府知事 :昭和6(1931)年12月18日~昭和7(1932)年1月12日:約1か月
警視総監  :昭和7(1932)年1月12日~昭和7(1932)年1月28日:16日

なお石川県知事となる前ですが、大正12年6月時点で内務省土木局長であった事が、彼の講演を記録した「地方改良研究第2巻」からわかります。

内務省土木局長というポストだったのが、関東大震災直後という大切な時期に石川県知事(大正12年10月25日)となり、8か月後に和歌山県知事となっているわけです。
最後の2ポストに至っては記録的な短さです。この任期の短さがこの人の体調に基づくものだったのか、性格に基づくものだったのかが気になるところです。

左岸の旧旧大河内橋遺産

この経緯について調べているうちに思いもかけない情報を見つけました。
前述した 「土木学会付属図書館デジタルアーカイブス」 には「土木の改良」という戦前の土木雑誌がデジタル化されているのですが、昭和15年12月に発刊された第22巻12号に「歴代内務土木局長と其時代(十)長谷川久一氏」として彼へのインタビュー記事が掲載されていたのです。

これによれば、彼は早くから日本の道路改良に取り組み、土木局長の時代はそれを主導する立場にありました。彼はローマ帝国の例に習い、全国いやアジアへの道路網を整備する事にこそ、世界平和の道筋があると考えていたようです。

そこに関東大震災が発生した。ここで帝都復旧優先と緊縮財政によって予算を削減されたわけです。当時も今でもそうですが、地方の道路整備よりも首都復興を優先するという考えが、彼の希望するところと相容れなかったのでしょう。ここで体よく石川県知事に栄転させられたわけです。彼の土木局長としての任期は大正11(1922)年6月14日~大正12(1923)年10月25日でした。

切断された旧大河内橋
切断された旧大河内橋 左岸より

内務省という所は、現場でこそダイナミックに力を発揮できるものの、こうした地方のトップというのは中央との折衝に費やされるわけで、決して面白いポストではありません。
彼にとっては全国の道路ネットワークの構築こそが、やりがいだった事は容易に想像がつきます。

さて戦後になってアメリカのラルフ・J・ワトキンスが日本の道路事情を調査しに来ていますが、この時に「日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない」と痛烈に報告しています。
直接の原因は鉄道輸送を偏重重視しすぎた、というのがありますが、この遠因が関東大震災と長谷川久一の「栄転」にあった事は容易に想像できます。

そういう意味で警視総監に就任したのは、現場主義の彼にとっては決して悪くないポストだったと思うのです。これは前任者の長延連が罷免されたのが原因でした。
昭和7年1月8日、警視庁の真ん前で昭和天皇の車列に手榴弾が投げ込まれるという『桜田門事件』が起こったのです。
長延連は前年12月13日に警視総監に就任したばかりでしたから、運が悪かったとしか言いようがありません。

そんな経緯で警視総監に就任した長谷川がなぜ16日で辞任したのか?
歴代内務土木局長と其時代(十)長谷川久一氏」 にはこうありました。

その就任した直後に署員に敬神の念を植付るべく同庁5階の正面に神棚を設けて署員一同に礼拝させたのを始めとして、すこぶる突飛なる言動をなしたとの故をもってその常識を疑問視されて就任後間もなく退官するの余儀なきに至ったのであったが、

『土木の改良』「歴代内務土木局長と其時代(十)長谷川久一氏」より、読みやすくしています。

ひゃあ「突飛なる言動」か。すこぶる気になるなぁ。
まあ神棚礼拝なんてこの数年後(昭和12年の日中戦争後)には当たり前にようになって行くんですけどね。
突飛かどうかはわかりませんが、彼の道路に関する思想は時代のずっと先を行っていた事は事実だと思います。

長谷川久一は終戦直後の昭和20年8月25日に亡くなり、お墓は谷中霊園にあるようです。
静岡市によれば10月初旬に、旧大河内橋の右岸側を取り壊す指名競争入札を行うとのことなので、この橋の姿を見れるのも、これが最後かもしれません。
彼が遺した扁額は、これからもあの場所で風化してゆくことでしょう。