ラプソディ・イン・ブルーの誕生 -1924年2月12日「新しい音楽の試み」-

今から100年前の1924年2月12日、ニューヨークのエオリアンホールで時代の分水嶺となった音楽が初演された。
ジョージ・ガーシュイン「ラプソ・ディ・イン・ブルー」だ。
ヨーロッパのクラシック音楽とジャズを融合させたという意味で画期的な作品だった。

夕日が沈みつつある大都会。夜の帳が降りると昼とは違った喧騒の表情が浮き出てくる。
伝統が破壊されジャズとダンスと快楽と物欲とが入り交ざった狂乱の20年代の夜がふけてゆく。
一見華やかな時代を謳歌しているようにも見えるが、何か空虚な陰鬱さが裏表にある。
そんな心象風景を描いた作品だと僕は理解している。

そうした試みは、それ以前にもないわけではなかった。
しかし、このコンサートの画期的だった事は、コンサートのタイトルを「現代音楽の実験(An Experiment in Modern Music)」としたことだった。
それ以前のジャズやアメリカの様々なポピュラー音楽を総括(演奏)した上で、次に来る音楽...「ラプソディ・イン・ブルー」を聴衆に提示したのだ。

主導したのはのちに「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれるポール・ホワイトマン
彼は1920年代に最も人気の高かったポール・ホワイトマン楽団のリーダーとして音楽界に影響力を持っていた。
「ラプソディ・イン・ブルー」は喝采を持って迎えられ、今では本当に「クラシック」と言える作品となった。

ここで一応お断りしておくが、「ジャズとクラシックの融合だ」とか「ポピュラー音楽の総括」というのは、あくまで白人からの目線であり、黒人のそれではない。
数年後に黒人ミュージシャンとして重要な存在となるデューク・エリントンも、ルイ・アームストログもベツシー・スミスも、まだ当時は知る人ぞ知る存在であったし、そもそも彼らが同じステージ立てる時代はもっと後の事であった。

さて、僕は33年前に、大阪心斎橋のHMVでこんなCDを買っている。

タイトルは「Gershwin:The Birth Of Rhapsody In Blue(ラプソディ・イン・ブルーの誕生)」。
そしてサブタイトルには「Paul Whiteman’s Historic Aeolian Concert of 1924(ポール・ホワイトマンの歴史的な1924年のエオリアンコンサート)」とある。

残念ながら1924年2月12日当日のエオリアンホールでのコンサート録音は現存していない(あったら国宝モノ)が、当時の演目を1986年に再現したアルバムだ。
指揮はモーリス・ペレス、ピアノはイヴァン・デイヴィスディック・ハイマン、あとはクラシック系の演奏者やジャズ系のミュージシャンが演奏している。

その音は1930年代以降のスイングジャズのビックバンドが持つような煌びやかな音でもないし、交響楽団のような華やかさもない。そもそも1924年の「ラプソディ・イン・ブルー」はポール・ホワイトマン楽団用、ジャズ楽団用のアレンジが、専属アレンジャーだったファーディ・グローフェによってなされている。これが1920年代のバンドサウンドなんだろうなと思いつつ聞くようにしている。

1924年2月12日火曜日、ニューヨークの天気は雪だった。
西42番街の「エオリアンビル」はピアノ製造業者であるエオリアンカンパニーの本社ビルで、建物の1階と2階には収容人数1,100人の「エオリアン・ホール」があった。

アイザック・ゴールドバーグの「ジョージ・ガーシュウィン:アメリカ音楽の研究 (1931)」にはこの日、押し寄せた観客の事が書かれている。
「ヴォードビリアン、目新しいものに目がないコンサート・マネージャー、ティン・パン・アレー関係者、作曲家やオペラの大スター、フラッパー、やさ男、すべてがごちゃ混ぜだった」。

押し寄せたのか招待されたのかは不明だが、客席にはこんな面々がいた。
作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキー、ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラー、指揮者のレオポルド・ストコフスキー(目新しいものに目がないといえばこの人)、指揮者のウォルター・ダムロッシュ、作曲家のビクター・ハーバート (ポール・ホワイトマンとも関係が深かった)、当時絶大な資金力を持ち、アフリカ系アメリカ人文化の庇護者だった作家のカール・ヴァン・ヴェクテン、オペラ歌手のマルグリット・ダルバレス、作曲家のジョン・フィリップ・スーザ (「マーチ王」として知られ1890年代に大人気)、そしてジャズピアニストのウィリー・“ザ・ライオン”・スミスの姿もあった。

コンサートはポール・ホワイトマン楽団のマネージャーであったヒュー・C・アーンストは、本コンサートを「この実験は純粋に教育的なものである」をプログラムに書いている。
アメリカのポピュラー音楽の歴史を「ジャズ」という視点から紐解き、ガーシュインによる「新しい音楽」で総括するという試みだから、そうなのだろう。

コンサートはいくつかのテーマに沿って26曲が演奏された。
最初のテーマは「True Form of Jazz(ジャズの真の形)」と題して、「Livery Stable Blues」「Mama Loves Papa」の2曲が演奏された。
Livery Stable Blues」は1917年2月26日にオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドという白人ジャズバンドによってレコーディングされた作品で、商業的に録音された最初のジャズ録音と言われている。この曲が爆発的なヒットとなり、テノールのエンリコ・カルーソ、マーチ王スーザのレコードを売り上げ記録を塗り替えたところから、ジャズの時代が始まった。

1986年版

1917年録音のオリジナル版

もう一曲「ジャズの真の形」として紹介された「Mama Loves Papa」は、今は歴史から忘れ去られてしまった作品だ。
アベル・ベアの作曲で1923年10月にアイシャム・ジョーンズ楽団やアル・ジョルスンらに録音されている。
「Livery Stable Blues」に比べると、後者のサウンドはずっと洗練されている。これは5年間のサウンドの進化というよりは、白人が白人に対して聞きやすいようにどんどん加工していってしまう例だろう。

次のテーマは「Comedy Selections(コメディ・セレクション)」。
Yes, We Have No Bananas
So This Is Venice

の2曲がメドレーで演奏された。

お次のテーマは「Contrast–Legitimate Scoring VS Jazzing」
意訳すると「対比 -正しく楽譜で書かれた作品 VS 即興性を重んじるジャズ演奏」という事だと思う。
どころがどっこいで、何か2曲の演奏を対比させるわけではなく、ここではポール・ホワイトマン楽団の出世作で、今でもジャズのスタンダードである「Whispering(ささやき)」1曲が演奏されている。

1920年8月20日に録音されたこの曲は、ジャズのスタイルながら白人のポピュラー音楽としての洗練さを兼ね備えており、当時200万枚を売る大ヒットとなった。

細かく書いているとキリがないので、当日のテーマとセトリを列記する。
・「Recent Compositions with Modern Score」
Limehouse Blues
Linger Awhile
Raggedy Ann

・「Piano Music by Zez Confrey
Kitten on the Keys
Romanza
Three Little Oddities(Romanza – Impromptu – Novelette)

Nickel In the Slot

・「Irving Berlin Medley」
Orange Blossoms in California (1923)

A Pretty Girl Is Like a Melody (1919)

Alexander’s Ragtime Band (1911)

第二次世界大戦以前のアメリカを代表する作曲家といえば、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュイン、コール・ポーターの3人が筆頭だと思っている。
コンサートでは、その中からアーヴィング・バーリンの代表的な2曲プラス1曲を演奏している。バーリンは3人の中で誰よりも早く1911年に「アレキサンダー・ラグタイム・バンド」で売れっ子作曲家となり、誰よりも遅く1989年に101歳で亡くなっている。


・「Flavoring With Borrowed Themes」
Russian Love

ロシア民謡をジャズアレンジにするという試み。


・「Adaptation of Standard Selections to Dance Rhythm」
Pale Moon
To a Wild Rose
Chansonette


・「A Suite of Serenades」
Spanish                                                                          
Chinese
Cuban
Oriental

観客席に座っている作曲家ビクター・ハーバートが、本コンサートのために書き下ろした小品集。
ハーバートはポール・ホワイトマンと10年来の友人であったが、この曲が遺作となってしまった。
このコンサートから3か月後の5月26日、心臓発作で急死してしまったからだ。

・Rhapsody In Blue

企画が先行し、目玉が後回しにされるというのも無茶苦茶な話だ。
過労に次ぐ過労でガーシュインが38歳で亡くなったというのも、一連の無茶が祟ったからだろう。
2月12日はリンカーンの誕生日だった。かねてよりジャズとクラシックの融合を目論んでいたポール・ホワイトマンは、この日に「黒人音楽の解放」を目指したのだろう。
ガーシュインにピアノ協奏曲を依頼したが、一旦は多忙を理由に断られている。

ところが1月3日の新聞記事に「ガーシュインがポール・ホワイトマンのためにジャズ協奏曲の制作にとりかかった」という記事が報道されてしまう。
リークしたのはホワイトマン本人に間違いないだろう。ガーシュインは作曲を引き受けざるを得なかった。

彼はボストンに向かう電車の喧騒の中で、突然音楽が沸き起こったという。
1月7日から作曲を開始し、一気にその曲を書き上げた。
ただしオーケストラ用の編曲をする時間がなかったので、ホワイトマン楽団のアレンジャーだったファーディ・グローフェが、コンサート形態にあわせた編曲をほどこしている。
スコアが完成したのは2月4日のことであった。しかもガーシュインが演奏するピアノ独奏部分は彼のアドリブに委ねられていたため、この日どのような演奏がされたのかは、いまだに不明だ。

1986年のモーリス・ペレス版は、いわゆる「交響曲版スコア」には頼らずに、当時のジャズバンドのアレンジや楽器編成、現存する録音などを分析した上で「再現演奏」されている。

2月12日の録音はないが、6月10日、ポール・ホワイトマン楽団はガーシュインのピアノ演奏でこの曲のレコーディングを行っている。
片面4分程度のSPレコードでは、演奏を片面で収録するのは難しいから「Par.1」「Part.2」という形でAB面に収録している。

この曲は喝采と称賛をもって迎えられた。少なくとも大衆にはそうだった。
JAZZを受容する動きは加速化し、本来のJAZZはどんどん白人を中心としたポピュラー音楽の体系に吸い込まれていった。
あの国ではいつもそうで、黒人の音楽を白人が飲み込んで消化する所から新しい音楽が生まれてゆく。

「1924年2月12日以降」という事を僕は考える。
その後の時代に生まれてくるありとあらゆる音楽は、この日を起点としてわかりやすい形で繋がっていると考える。
まずはスィング・ジャズの時代、次いでモダン・ジャズとR&Bの時代、そしてロックの時代...
その分水嶺となったのがこの作品だった。