最後の明治人

おみおくり

25日の未明のことです。
京都の義母から電話があり「おばあちゃんが亡くなった」ことを告げられました。
亡くなったのはカミさんの祖母です。今年の6月に「99歳」という記事で紹介した人です。
享年99歳、あと半年で100歳というところでした。

祖母はずっと「大正元年生まれ」と周囲に言ってきました。
ある時、祖母に生年月日を教えてもらったところ「6月7日だ」と言われました。

ちょっと待てよ....明治天皇が亡くなったのは、7月か8月だかの暑い季節だったよな?
調べてみると明治天皇が崩御したのは7月30日の未明で、その日のうちに大正と改元されたようです。

そこで祖母に「6月7日ならば、まだ明治ではありませんか?」と尋ねると、祖母はニヤっと笑ってこう言いました。
「だって”大正生まれ”と言うた方が、若く見られますやろ」

そんな祖母でした。

(2011年5月4日)

「大正元年」...明治45年6月7日(実におぼえやすい日付!)に京都の鳴滝のお米屋さんに生まれた彼女は、大正デモクラシーの自由闊達な空気を吸い込んで育ちました。

昭和の初め頃、東京でOLとして働いていたこともあるそうです。
そりゃあもう綺麗でお洒落な人でしたから「モガ」だったのだろうと思っています。

その後、同じ京都の「西ノ京」に住む「りょうのすけさん」と結婚しました。
「りょうのすけさん」は祖母の話ではもともと近衛師団の騎兵だったそうです。
昭和天皇が即位した際に旗を持ってパッカパッカと先導したそうなのですが、このことをいつも誇らしげに語ってくれました。
「そりゃあもう、ほれぼれするような男前でしたわ」、というのは祖母がいつもその話のおまけにつける言葉でした。

(「ほんまかいな」と、この映像を見る度に思う)

太平洋戦争が始まると「りょうのすけさん」は、再び戦地に赴きました。
そして終戦後にソビエト軍の捕虜としてシベリアに抑留され、そのまま還らぬ人となったのです。

僕は一度、厚生省へ行って「りょうのすけさん」がどのような状況で亡くなったのか、資料を見せてもらったことがあります。
平成3年にロシア政府から返還されたリスト、その中の「プリモルスク地方」と書かれたファイルの「第11収容所・第7支部」の死亡者リストに、その名前を確認することができました。「りょうのすけさん」は平壌でソビエト軍の捕虜となり、札幌と同じ緯度のパルチザンスク(現在の地名)で最初の冬を越えることなく亡くなったのです。昭和21(1946)年2月19日のことでした。

未亡人となった祖母は、3人の娘を育てました。
「遺族年金で何とか食べてゆけた。りょうのすけさんのおかげや」と僕に言ったことがあります。
「シベリア抑留で亡くなった人は戦死扱いだから年金が出たけど、帰国直後に亡くなった人はそれも出なかった」とも言っていました。

今年の5月に、娘の十三参りで京都に行った際に、お会いしたのが最後となりました。
この時、僕は「りょうのすけさん」の遺影をiPhoneで撮影してもってゆきました。
その画像を義母が「おばあちゃん、これ誰だかわかる?」と見せると。
「わかるわぁ、りょうちゃんや!」と祖母は言いました。
「男前やったなぁ、ええ人やったわ」とも言いました。
この人が当時「りょうのすけさん」のことを「りょうちゃん」と呼んでいたことも発覚したのです。

「これは写真が見れる道具かいな?」と尋ねられたので、
「一応は電話なんですが、色々な機能がついているんですよ、例えば...」と言ってピアノアプリを起動させてお渡ししたら、
「ほう、こりゃあえらいものやなぁ~、面白いものやなぁ~」とポンポン音を出していました。

(iPhoneを触る99歳)
そしてご機嫌になった祖母は「夏も近づく八十八夜、とんとん」と歌いだしました。

本日、お通夜に出席するため、日帰りで京都まで行ってきました。

「おくりびと」によって死化粧をほどこされた祖母の顔は、80歳ぐらいにしか見えません。とても美しいお顔でした。
生前、花が大好きだった祖母は沢山の花に囲まれて嬉しそうでした。

そして遺影に選ばれたのは、僕とカミさんの結婚式に出席した時の写真でした。

これで僕の親戚で明治生まれの人はひとりもいなくなってしまったわけですが、こんな話はどうでしょう。

お通夜の後の料理の席上で、ある親戚が「あの人はいつの生まれだったかのう?」とみんなに尋ねました。
他の親戚が「たしか大正元年と聞いてますが」と言い、
それに同調して「そうそう、大正元年です」と言う人がいました。
「ああ、そうじゃった、そうじゃった」とその人は納得していました。

祖母は自分を若く見せることに最後まで成功したようです。

そして今頃は「りょうちゃん」と65年ぶりに再会しているのでしょう。

おみおくり