鴻栄のチャーハン

雑食

「自分にとって究極のチャーハン」というのがある。

僕は千葉県の高校を卒業しているのだけど、高校の坂の下にあった「鴻栄(こうえい)」というお店のチャーハンがそれだった。当時普通盛が150円。大盛りが250円だったと思う。

食べ物の美味しさを言葉で説明するというのは難しいことだけど、あえて言えば「極めて普通の中華料理屋さんのチャーハンのやや味が濃いバージョン」としか言いようがなかった。

当時の僕は、しばしば自転車で坂を駆け下りて鴻栄へと通ってチャーハンの大盛りを注文していた。月:チャーハン、火:弁当、水:売店のパン、木:味噌ラーメン、金:売店のパン、土:チャーハン、というような「鴻栄シフト」あるいは「鴻栄サイクル」の中で学生生活を送っていた。

この鴻栄のオヤジというのが、高校でも「鴻栄のオヤジ」という通称で通る有名人だった。一言で言えば「頑固親父」だったのだ。

同級生に「キザ男」で通っているTというヤツがいた。
ある日常連でもない彼がフラっと店に入ってきて「ニラレバ炒め」を注文した。
鴻栄のオヤジが「ニラレバ炒めはやってないよ」と言った。Tは言わなければいいのに、「ないのかよ~ニラレバ」と独り言をこぼした。そうしたらオヤジは怒って「嫌なら出てけ!」と怒鳴った。Tと鴻栄との縁はそれでおしまいだった。

その地雷はあくまで鴻栄のオヤジ基準だった。僕はこの店で少年ジャンプの「こち亀」を読みながらチャーハンを食べていたけど(今でも20巻前後の「こち亀」を読みかえすと「鴻昌」を思い出す)、そういう「ながら族」的な態度はなぜかセーフだった。どうもメニューにケチをつけると間違いなくアウトだったようだ。

それから20年の歳月が流れた。

ある日、ぼくは無性に鴻栄のチャーハンが食べたくなった。
車を走らせて千葉県の市川市の国府台(こうのだい)という街を久し振りに訪れてみた。

すでにそこには「鴻栄」はなかった。
表通りに面した衣料品店のおばちゃんに聞いてきたら、「ああ鴻栄さんね、ご主人が体こわしたかなんかで、店たたんじゃったよね。もう5年ぐらいになるかしら」。

結局、あれほど美味しいチャーハンには二度と出会ったことがない。中華街にあるもっと高級なお店の高級なチャーハンも、あの味にはなぜか適わない。

似ている味ならば知っている。日高屋と佐野金のチャーハンがそれに近い。つまりフツーの中華料理屋さんのスタンダードなチャーハンだ。

ただし、両者と比べると鴻栄のそれはもう少しパサパサしていなくて、もう少し味が濃かった。

当時、僕は「なぜ鴻栄のチャーハンはうまいのか?」という謎を解くべく、一度オヤジの一挙一動を観察したことがある。鉄のフライパンさばきは見事だったが(といって他者と比較したわけではない)。その途中に何か黄色い缶に入った醤油色の調味料をササっと入れるのだ。

「あの黄色い缶に秘密があるに違いない」と思った。

でもどうみたって一般に売られているような業務用の缶なわけだから、その微妙な量とか、炒め具合に秘密があったのかもしれない。

謎は謎のまま、すべては藪の中になってしまった。

雑食