旧稲核橋(いねこきばし)

ぶうらぶら,歴史の切れ端

国道158号

長野県松本市から北アルプス(飛騨山脈)を安房峠で越えて飛騨へと抜ける道『国道158号』。
僕はこの道が好きで何度通ったかわかりません。

この道、時代によってルートが変化しますが、松本から奈川渡までがおおむね野麦街道、そこから先、安房峠を越えて高山へ至る道はおおむね飛騨街道(中世の鎌倉古道)です。
昭和初期には上高地への観光道路として乗合自動車が通る程度には整備され、戦後は大電源地帯として乱立したダムによってその旧道の多くは水没しました。

道の歴史の宝庫という意味でも興味深いルートですが、この道の本質は『飛騨山脈の急激な地殻変動によって今なお崩壊を続ける山岳道』です。
しばしばがけ崩れや土石流によって道路は寸断され、時にはルートそのものが変更されます。
放棄された旧道は数知れず、それでも上高地や乗鞍、高山観光のため、日本の東西を結ぶ接点として辛うじて維持されている道です。

たとえばアカンダナ山と安房山の鞍部を越えて飛騨の平湯温泉へと抜ける安房峠は、2020年の豪雨災害の影響で中の湯泉から先は通行止めが続いています(2021年6月現在)。
幸いな事に通年通行可能な安房峠道路(安房峠トンネルと湯ノ平トンネル)があるため、この道の復旧がいつになるかわかりません。

その安房峠トンネルも建設中の1995年に自然の頑強な抵抗を受けています。場所は信州側の中ノ湯IC付近でした。上高地へと分岐する釜トンネルのすぐ先ですね。国道158号から分岐してトンネルへと向かう取り付け道路の橋脚工事現場、この真下(梓川西側斜面)で大規模な水蒸気爆発が起こったのです。噴出した土砂は対岸の国道158号線に降りかかり、道路を1mほど埋没させました。運悪く爆発現場近くにいた建設作業員4名はそのまま土砂に埋もれてしまい、立ったまま遺体として発見されたのです。

その結果、安房峠トンネルの中ノ湯IC側はルートの変更を余儀なくされました。
今でも中ノ湯IC手前の一般道部分と、トンネルに入った直後に不自然なカーブがあるのはそのためです。そして今なお当初の橋脚が放置されています。

北アルプスを切り開く道の持つ宿命がこの事故に象徴されています。

安房峠道路の放棄された橋脚

復旧がままならない峠の道がある一方で、松本側ではいま、新しいトンネルが建設中です。
場所は奈川渡ダム手前の区間。ここは急カーブと大型バスの離合困難なトンネルが続く区間で、特に奈川渡ダム手前にあるU字カーブを解消するために、2本のトンネルと1本の橋で一直線につながる予定です。おそらくは「安曇トンネル」「大白川トンネル」と命名されるんじゃないかと思いますが、この開通によって、158号線からまた昭和の面影が消えてゆくのでしょう。

2号トンネルの大白川側坑口。手前に川を横断する橋の橋脚も建設中。
工事計画(長野国道事務所

発見

さて10年前、一人旅で乗鞍へ行く途中の事です。
この日、国道158号線は雨が降っていました。雲は低く垂れこめ、周囲の山々の稜線は霞んでいました。
新島々、島々の集落を抜け、いくつかの洞門(ロックシェッド)を通った後。稲核橋のすぐ手前で脇道へと入りました。
稲核ダムへと続くその道でダムでも眺めながら一服しようと思ったのです。

そうしたら、眼前に入ってきたのが、この光景でした。

稲核橋と旧稲核橋(2011年)

これがその橋を撮影した最初の写真です。
ちょっと驚きました。
普通は新しい橋が完成したら、古い橋は取り壊されるものです。
現在の稲核橋もたいがい古い橋ですから、このような旧橋が取り壊されずに残っている事に驚いたのです。

稲核橋拡大(2011年)

よくよく観察すると橋にアクセスする道もあるようです。昭和初期からある旧道に間違いありません。
「島々から来た道の途中に、あの橋に通じる旧道があるに違いない」と思いました。

そこは意外と慎重な性格です。
いきなり旧道を探しには行きません。
まずは地元に詳しい方に尋ねるのが一番だと思いました。

国道158号をさらに2.5キロほど進んだ先に「松本市安曇資料館」というのがあります。
道の駅 風穴の里』に隣接したこの郷土資料館ならば、絶対にカギを握っているはずです。

学芸員の方に「稲核橋の真下に旧橋があるようですが、あそこに車で行くことは可能でしょうか?」

唐突な質問に対して学芸員の方は苦笑しながら「行けなくもないです」という微妙なお返事。
そして丁寧に教えてくれました。

「いったん橋を渡って新島々方面に進んで下さい。降りる場所は最初のロックシェッド(明ケ平洞門)の右手にありますが、ここを右折で入るのは難しいです。ロックシェッドを越えるとUターンできる場所があります。もしそこでUターンできなくても途中に何か所かUターンできる場所がありますから、そこでUターンして下さいね。再びロックシェッド(明ケ平洞門)を出た瞬間に左折して降ります。ここで注意して欲しいんですが、降り道は一瞬で通り過ぎてしまうのでゆっくり進んで下さいね。その先はガタガタ道を数分進んでください。まあ車一台なら通れる道ですが、樹木にボディを擦られるのと落石に注意して下さい」

極めて難易度の高そうな行き方を教えてくれたのです。

いま来た道を引き返します。稲核橋を渡り島々方面へと向かうと、確かにロックシェッド(明ケ平洞門)の脇に下へ降りる道があります。

明ケ平洞門 (Gogleストリートビュー)

「あれだ!」と思いました。
言われたように簡単に右折で入れる道ではありませんから、一旦直進します。
洞門を抜けると、確かに反対車線に広いスペースがあって、Uターンできる場所がある事はありました。しかしそこにはフロントのバンパーを大きく損傷した観光バスが停車しているではないですか。

「???」と思う間もありませんでした。
その先でちょっとした渋滞があり、その数十メートルほど先、視界の悪いカーブを曲がった先で、乗用車が山側へ横向きになって車線を塞いでいたのです。
乗用車のフロントは悲しいぐらいに潰れていました。状況からみると、見通しの悪いカーブでバスと乗用車のどちらかが中央分離帯をオーバー(ハング?)した結果、衝突したのでしょう。
まだ警察も来ていません。その光景を横目に、対向車線を徐行しながら通りすぎます。家族連れだったようで運転手と家族が車外に出ているのが確認できたので、そのまま通り過ぎます。

そこから1kmほど進んだ所でUターンできそうなスペースを見つけ、再び稲核橋方向へと向かいます。
自分の心の中の声はこんな感じです。

えーと、また引き返してきた者です。
すいませんね。別に野次馬じゃないんです。
多分ご理解頂けないと思いますが、稲核橋の旧道を探しているんです。

上高地方面から来た車(右車線)が、松本方面から来たバス(カーブの向こうの退避スペースに停車)と衝突し、横向きにされたのでしょう。国道158号にはこういう危険もあります。

旧道へ

洞門の手前から速度を落とし、ゆっくりと左折します。昭和初期から現存する旧道部分に入りました。
坂を下るとその先は未舗装区間です。轍の跡があるのが幸いです。

旧稲核橋へ向かう旧道(左)と現158号(右)

事故を目の当たりにした直後ですから「はたしてこのまま進んでいいのだろうか?」という不安はあります。
常に自然の猛威に常にさらされている国道158号、楽しい旅の行き帰りに起こったすれ違いざまの悲劇、予期せぬ何かが起きるのがこの道です。その二つは表裏一体のように思えましたが、意を決して進みます。

道は意外とメンテナンスされていました。轍に雑草が生えていない事から、比較的車の往来があることがわかります。そして比較的新しいけど、あまり頼りにならなさそうなガードケーブルも設置されています。

この道(島々から稲核橋を越え稲核集落までの区間)が開通したのは意外と古く、明治36年(1903年)の事でした。
もっとも往年の道そのままというわけではありません。島々に近い断崖絶壁の区間で平成3年に『猿なぎ洞門』が崩落したため、現在は三本松トンネルでショートカットとなっています。

放置されている猿なぎ洞門(2021年)
崩落した瞬間をとらえた貴重な映像があります。

明治36年より前、野麦街道は対岸(梓川右岸)のずっと山の上の方を稲核まで結んでいました。江戸時代から古い道です。

橋場集落と旧野麦街道

話が脱線しましたが、明治36年に梓川左岸ルートが開通した事で、荷馬車も通れるようになったのでした。

旧稲核橋へ続く旧道。おそらく明治36年当時と変わりません。左手には断崖絶壁が続きます。

昭和2年の事です。新聞社が「昭和の時代にあった景勝地を」という事で「日本新八景」の募集選定を行いました。その渓谷部門一位に上高地が選ばれた事で、この道を通る人が増えて行きます。もともと登山客以外には敷居の高った上高地でしたが、次第に観光客が増えてゆきます。

昭和5年に植物学者の熊沢正夫が書いた『上高地-登山と研究-』という本があるのですが、そこから当時のこの道の風景を引用してみましょう。

乗合自動車は島々村を経、梓川に沿うて進み、島々村より約二時間後には、上高地温泉より約二里弱手前の温泉宿、中ノ湯に到着する。
島々村から中ノ湯までは、里程は七里餘で、途中稲核(イネコキ)、奈川渡(ナカワド)、澤渡(サワンド)の部落を経、常に梓川に沿うて山間を迂回するもので、春の新緑の候、秋の紅葉の節は甚だ美観である。盛夏の頃でも晴天の日等は、山々を次から次に迎えては送り、流れの涼風に浴しつゝ車を駆るのは確かに愉快なことである。

島々、奈川渡間は可成り以前から立派な路が出来て居り、多少の積雪期でさへ定期の大型乗合自動車が通じてゐるが、奈川渡、中ノ湯間の約四里の道路は、梓川の河床に近い所に切り開いて昭和四年夏から開通し、シボレーの幌形が単線で運転してゐる。従つて島々又は松本から中ノ湯に至るには奈川渡で乗り換へる必要がある。夏中は島々、中ノ湯間には一日七往復の定期運転が行はれてゐる。

熊沢正夫『上高地-登山と研究-』(昭和5年6月 刀江書院)

まだ乗合自動車の終点が中ノ湯だった時代の記述です。中ノ湯は現在の釜トンネル入口付近にありました。これも水蒸気爆発事故で別の場所に移転しています。
人々は上高地へ行くのにここから8km弱の道を歩いていました。昭和2年に開通したばかりの釜トンネルは、まだ3m程度の断面しかなかった時代の話です。乗合自動車で大正池まで行けるようになるのは昭和8年まで待たなければなりません。

さて、2011年に時計を戻します。こうして進んでいる道は、お世辞にも熊沢が書いているような『立派な路』とは言えません。しかしこの道は昭和初期の野麦街道の雰囲気を完全に残しています。左手は断崖絶壁が続き、樹木の隙間から渓谷が見下ろせます。かなり美しい渓谷です。昭和初期には今以上にスリリングで美しい風景を感じる事ができたはずです。

この時にTweetしたのがこれ。

石仏がありました。背後には稲核橋の橋脚も。
昭和10年頃の地図とGoogle Mapとをレイヤーにしてみました。矢印の部分が現存する旧道。

旧稲核橋

現稲核橋の橋脚直下を潜り抜けると、眼前にその橋が見えてきました。

旧稲核橋(2011年年撮影)

「うお」。思わず声を出します。橋のおどろおどろしさと「よくもまあ現存していたな」という感動の気持ちと、ここに辿り着いた自分に対する得体の知れない感動とが入り混じった気持ちです。

一応、アスファルト舗装が残っていますが、その多くは雑草に覆われています。
近くの岩盤が崩落を続けるうち、その砂利が橋の上に流れたのでしょう。草木はその上に生え育っているようです。葉はやがて枯れ落ちるのですが、それが土にもなれずヘドロ状の物質になってなっているのが不気味でした。

ヘドロみたいなもの

橋の真正面には稲核ダムが見えます。
考えてみればこのような高い視点で正面からダムを眺められる場所は珍しいかもしれません。

この旧橋は昭和11年に完成しました。専門用語で『鋼上路トラスドアーチ橋』と言うそうです。
いっぽう現在の稲核橋は昭和40年(1965年)に完成しています。稲核ダムの完成が昭和44年(1969年)ですから、旧橋はダム建設に利用され、その後はダム管理用に利用されているのでしょう。いまだに解体される事もなく、奇跡的に現存しているのです。

昭和11年開通時の稲核橋(3代目)と2代目稲核橋(信濃毎日新聞社「信濃の橋百選」より)
木造方杖橋だった2代目稲核橋(戦前土木絵葉書ライブラリーより)
梓川右岸下流側の親柱(2011年)

ヘドロと猿の糞が散乱する箇所を乗り越えて対岸まで歩いて渡ります。道は橋を渡った先で右にカーブし100m程続いた所でダムに遮られています。
旧橋の対岸には監視カメラらしきものや何らかのセンサーなどが設置されていました。さすがにここから先は進みませんでした。

対岸に続く旧道(梓川右岸側 2011年)
剥落を続ける親柱
欄干は極めてシンプルなもの

太い蔦がコンクリートを砕いて上へと延びています。
鉄骨の橋ではありますが、上部構造はどんどん崩壊を続けている事がわかります。

そして、橋以上に目を見張ったのが、下流の風景でした。昭和初期には多くの美しい渓谷があり、奇岩奇勝だらけだったこの川の大半は複数のダムによって水没してしまいました。
ここはそうした往年の梓川渓谷の風情が楽しめる数少ない場所でした。

2021年の旧稲核橋

2021年5月、雑炊橋から橋場付近の旧野麦街道を探索するついでに、家内と再びここを訪れてみました。
慣れた旧道ですが、以前より落石が路上に増えていました。着いた瞬間、橋の上で遊んでいた猿が逃げ出しました。

旧稲核橋(2021年)

対岸に渡ると、進む事すら困難だった旧道の雑木が伐採されていました。
それでは進んでみようと思ったのですが、測量だか地盤調査かわかりませんが、地面に沢山のケーブルが張っている。
壊したらまずいなと思って諦めました。

対岸に続く旧道(梓川右岸側 2021年)

心なしか対岸の親柱も崩壊が進んでいる気がします。

梓川右岸下流側の親柱(2021年)

草が刈られた事で、ようやく対岸の旧道の全貌を見る事ができました。

いまでこそ道はダムに遮られてしまいますが、奇岩奇勝の合間を縫うようにずっお進んでゆく乗合自動車。そんなイメージが脳内をよぎりました。

上高地(上)と新淵橋(下)を通る乗合自動車(雑誌「中部山岳」昭和11年9月号にあった広告)

橋の事はさておき、やはりこの渓谷美が素晴らしいです。

さて、雑木が伐採された事で、思わぬものも発見しました。
旧稲核橋のコンクリート製の橋台の右手に、城の石垣のようなものが確認できると思います。
先ほどの昭和11年開通時の写真を見てもわかる通り、2代目稲核橋の橋台が現存していたのです。

歴代稲核橋の橋台

思わず発見したその橋は、さりげなく静かに多くの歴史を残していたのでした。

ぶうらぶら,歴史の切れ端