地震動の擦痕(さっこん) -昭和5年北伊豆地震-

ぶうらぶら,歴史の切れ端

ぶらっと韮山(静岡県)あたりにでも行ってみようかとGoogle Mapを見ていたら「地震動の擦痕(さっこん)」という表示が出てきた。

「擦痕」とは「すりきず」みたいな意味だ。

きっと地震によって生じた断層か、岩盤に痕跡が残っているに違いない。そんなことを想像した。
「歴史的災害の痕跡マニア」としては放置できないので、さっそく行ってみることにした。

事前にそれが何かを調べる必要はないし調べる気もない。何があるのかを行っての楽しみに取っておくのも「ぶうらぶら」の面白いところだ。

予想できることがあるとすれば……あの付近で「地震」といえば関東大震災のことじゃない。昭和5(1930)年に発生した「北伊豆地震」に間違いない、ということだけ。
北伊豆地震 古奈温泉付近の被害
(北伊豆地震 伊豆長岡古奈温泉付近の被害「中央気象台 北伊豆地震報告」より)
北伊豆地震 三島町の被害
(北伊豆地震 三島町付近の被害「中央気象台 北伊豆地震報告」より)

昭和5年11月26日午前4時2分、伊豆半島の丹那盆地を震源地としたマグネチュード7.3の烈震が発生した。
震源地は丹那断層。いわゆる活断層地震だ。北は箱根の南端から南は中大見村原保(現在の伊豆市原保)に至る35kmの断層が、西側は南に、東側は北に2m以上横ずれした。
北伊豆地震 丹那断層のずれ
(北伊豆地震 丹那盆地における断層の食い違い。「中央気象台 北伊豆地震報告」より)
丹那断層を縦割りに見たところ
(丹那断層を縦割りに見たところ。2008年撮影)

最も被害が甚大だったのが箱根、函南、韮山、長岡、三島付近で、死者不明者をあわせて272名が亡くなっている。
実は函南町にはこの地震による痕跡スポットが2か所ある。ひとつは「天然記念物丹那断層」、そしてもうひとつは「火雷(からい)神社の断層」といわれるもので、ここでは省略する。

韮山といえば反射炉が有名なんだけど、ここもスルー。
最後はGoogle Mapをナビにして「地震動の擦痕」なる場所に到着する。

ところが見渡してもナビの示した先には「擦痕的なもの」がない。
考えてみれば「擦痕的なもの」とは何か?ということもよくわかっていないわけだけど、とにかく辺りをグルグル回った挙句、ようやくこの建物に「擦痕的なもの」が入っていることに気づいた。
地震動の擦痕
(天然記念物「地震動の擦痕(さっこん)」)

そうか屋内に断層を保存しているんだなと思いつつ、ガラス越しに建物の中を覗いてみると….
地震動の擦痕 魚雷
……なんじゃこりゃ、水道管か?
横に解説版があるので、読んでみる。
140323_173311

「地震動の擦痕:魚雷に記録された地震のゆれ」
1930年11月26日の北伊豆地震(マグネチュード7.3)は丹那断層をはじめとする活断層が震源となり、現在地付近でも建物の全壊率25%をこえる強いゆれに襲われました。この強いゆれで旧江間小学校校庭に展示されていた魚雷がすべり、台座に引っかかれたキズ(擦痕)が残りました。このキズからは、複雑なゆれの様子を読み取ることができます。

へぇ~

まず驚いたのは、これが「天然記念物」だってこと。ホラ、フツー天然記念物といえば動物や植物や虫や石や山とかを思い浮かべるでしょう。魚雷のような人工物がそれだというのは今まで聞いたことがなかったし、生まれて初めて見たかもしれない。
天然記念物魚雷どーん
地震で被害を蒙った人工物ならば東京本所の「復興記念館」にゴロゴロしているぞいと思いながら、解説を読み進めると….
地震動の擦痕 魚雷

「ゆれはじめの弱い振動による魚雷の動き」ゆれはじめの弱い振動で魚雷が回転し、キズがつきました。
「その後の強いゆれによる魚雷の動き」それに続く強いゆれで魚雷が前後にすべり、キズがつきました。

なるほど「P波」と「S波」ってやつならば高校の地学で習ったし、さんざん経験している。
この魚雷、最初の「縦ゆれ」でゴロゴロ廻り、次に大きな「横ゆれ」で前後にすべらされた、というわけだ(※1)
天然記念物「地震動の擦痕」碑
なんか納得がイマイチゆかないのだけど、娘と二人で「おー、すげー」とか言いながら、しばし鑑賞した。
横に、やや古ぼけた解説版があったので、こちらも読んでみる。
地震動の擦痕 解説板2

「地震動の擦痕 解説」
昭和五年三月十日忠魂碑建設の時に海軍から魚雷を寄付され付属物として展示されていた。
この年十一月二十六日北伊豆地震が起こり台座が針となって魚雷が震動し魚雷腹部を削り擦痕をつけて自然の地震計となった。
天然記録としてきわめて珍しく昭和九年一月二十二日国の天然記念物に指定された。
魚雷は台石の上に頭部を南五度東に向けて安置され地震に対して不動点となったため擦痕を印した。
擦痕の曲線は左下方より一往復半の後四回の一進一止をくり返して合計七十二五ミリ(ママ、正確には725mm)の移動を示した。
この曲線は地震動の実大を示したものではない。

どうもリアルに地震のゆれを記録した人工物ということから天然記念物に指定されたようだ。
面白いのは「三月十日」という日付。陸軍記念日に忠魂碑を建立したことがわかる。おそらくこの辺りでは陸軍に出征した人が多かったのだろう。そして寄り添うように海軍の魚雷を置いた。だけど肝心の忠魂碑は戦後に撤去され(GHQの圧力か?)、残ったのは海軍の遺物だった、というわけだ。

建物の裏手にまわると、当時魚雷を置いていた忠魂碑跡が現存していた。
旧江間小学校校庭 忠魂碑跡
今では学校もなくなり、広い公園の片隅にこの遺跡が残っている。
忠魂碑跡
忠魂碑跡 倒れた大砲形状の欄干
倒れた砲弾形の欄干だけが、ここに何があったかを偲ばせる。
これもある意味、人類の天然的な部分に対する記念物なんじゃないかと思った。

帰宅後にWikipediaで知らべてみたら「地震動の擦痕」でしっかり記事にされていた。それによると、

2013年(平成25年)に、神奈川県茅ヶ崎市にある旧相模川橋脚が指定される(液状化現象を対象とした指定)まで、日本に数ある国指定の天然記念物の中で、自然物でないのはこれだけであった。

と書かれていた。いやはやかなり珍しいものを韮山まで見に行ったわけだ(その割には扱いは地味でしたが)。

お次はこの魚雷が天然記念物に指定された経緯についてだ。人工物が天然記念物になるというのは、よくよくの「お墨付き」があったんだろう。そんなことを考えた。
昭和9年といえば満州事変の2年後だけど、まさか魚雷を提供した海軍から強い要請があったとは思えない。そもそも満州事変では海軍はあまり関係はなさそうだし、当時はまだ軍部の発言力はそれほど強くはなかったはずだ。

そうやって調べているウチに、東京帝国大学地震学教授の今村明恒という名前にぶつかった。この人ならば知っている。吉村昭の小説「関東大震災」「闇を裂く道」に登場した人だ。すでに明治時代に関東大震災の発生を警告し「地震の神様」とまで呼ばれた地震学の第一人者だった。

今村は震災3日後に現地入りして三島から車で調査にまわっている。同時期に気象庁の調査グループも現地調査をしているが、気象庁グループが実際の震源地である丹那断層沿いをフィールドワークして地質の変動をまとめているのに対して(「北伊豆地震調査報告(昭和5年12月・気象庁)」)、今村は主に断層より西側の三島・韮山などの地域を調査し、家屋など人工物の地震による移動に着目、大地の揺れ方そのものを研究している点が興味深い。

そしてその成果である「北伊豆大地震の計測学的研究(昭和6年1月・東京帝国大学)」という論文内で、早くも江間小学校の魚雷について触れている。気象庁の「北伊豆地震調査報告」では触れられていない部分だ。
今村論文01

江間小学校校庭にある魚雷水雷の面に印せる模様は、最激震地方における地震の天然現象とみなすべきものである。(中略)以上の意味において、本魚雷面の模様は最激震の天然現象としてのみならず、構造物大移動の状況を如実に記録した世界唯一のものであろう。「北伊豆大地震の計測学的研究(昭和6年1月・東京帝国大学)若干読みやすくしました」

今村論文02
北伊豆地震直後の魚雷

ハイこれで決まり。
地震学の第一人者が「世界唯一」と太鼓判を押したことが、人工物を天然記念物ならしめた大きな理由だったことは想像に難くない。

そんな今村だが、現地調査の前日の記者会見で「北伊豆地震は人工物が重大な関係を持っている」という発言をしている。
「人工物」とは魚雷のことではない。あるトンネルのことだ。
丹那断層模型
(丹那断層の模型。断層=赤い線に対して、直角に丹那トンネルが通っていた)

先ほども紹介したけど吉村昭の小説に、昭和9年に開通した丹那トンネルの掘削を描いた「闇を裂く道」というのがある。ここに、そのあたりのことが書かれている。

丹那トンネルの工事は膨大な地下水との戦いでもあった。潤沢な地下水をためこんだ丹那盆地の直下で行われたトンネル工事は「水をためた鍋の底に穴を開ける」ようなものだったという。大量の出水はついには丹那盆地の函南村…トンネル掘削以前には潤沢に地下水が湧き出る清流の美しい村で、7か所にワサビ畑があった…を渇水化させ、住民との深刻な対立にまで至っている。今村はこの点に着目し、震災の2日目に東京大学地震学教室で記者会見を行った中で地震と丹那トンネルの関係について述べているのだ。

今村は、大正十四年に放送を開始した東京の愛宕山に建てられたJOAK(日本放送協会)の建物を例にあげて説明した。
その建物の真下にトンネルが掘られたが、その影響を受けて建物が傾き、床に一尺(三〇センチ強)の食いちがいが生じた。これは、トンネル工事で渇水が起き、土層が変化したことが原因であった。これと同じように、丹那盆地の地下水が丹那トンネルにしぼり取られて地層が変調し、盆地を中心に地層が低下したのでV字型の断層ができ、それが地震を起す要因になったとも考えられる、と述べた。(吉村昭「闇を裂く道」)

人工物が天然記念物になった原因となった地震が人工物に起因する。しかもその両方に今村先生がからんでいるという何ともややこしい話なんだけど、この人、現地調査後には「丹那トンネル原因説」を撤回している。もちろん調査の成果「北伊豆大地震の計測学的研究」では「丹那トンネル原因説」には一切触れられていない。むしろ「自分の予備研究が不十分で(地震発生前に)地殻変動の測定を伊豆地方全体で行う価値があったのに、それをしなかったおかげで今後の地震予知研究に役立つサンプルを取り損なった。不覚だ。」という意味のことを綴り、自分を恥じている。うーん、今村さんってなんだかいい人だ。こういう人が理研の上司に数人でもいれば…..あっいや独り言です。
丹那トンネル内で見られた断層鏡面
(丹那トンネル切端部分に発生した断層鏡面)
最後に…掘削中の丹那トンネルには無罪判決が下ったようだけど、北伊豆地震おかげでトンネルには呆れるような被害が発生している。
地震後に三島口から調査に入った技術員たちは、切端(きりは=トンネル掘削最先端部)まで到達して戦慄した。実はトンネルの掘削は丹那断層に到達したところで調査のために工事を中止していた。そこに発生したのが北伊豆地震だった。断層を境に東側(熱海側)は北へ移動し、西側(三島側)は南に移動した。落盤を防ぐために切端の左右を支えていた鉄製の柱(支保工)のうち、左側の柱は断層の裂け目に吸い込まれた。そして右側の柱が左側に移動してしまったのである。

正面には綺麗な断層鏡面が現れ、それは大体水平に条痕がついていましたので、この断層を境にして東西の地塊が運動し、西の方が南に八尺(2.4m)位ずったことがわかりました。
もしトンネルが断層の先に進んでいたならば、奥に働いている人は天の岩戸式に封じ込められるところだったのです。
(「丹那トンネルの話」昭和9年・鉄道省熱海建設事務所)

天の岩戸式に閉じ込められる
東海道本線で丹那トンネルを通る時は、こんなことに思いを馳せるのもいいのではないかと。

※1:必ずしもP=縦、S=横というわけではないそうです。詳しくは「地震波」を参照願います。

ぶうらぶら,歴史の切れ端