一枚の銅板
今日は日本テレビの「広島 昭和20年8月15日」というドラマを見た。ドラマ評については他にゆずるとして、10年前に「ヒロシマ」へ旅行した時の話をする。
同じような熱い夏だった。
当時住んでいた京都で車をレンタルした僕は、彼女(今でも生計をともにしている)とともに徹夜で広島へと向かった。
広島原爆資料館で被爆資料を見た。焼け爛れた衣服、熱で変形したビン、体から摘出されたガラス片。爆風で変形した橋げた...そうした資料の数々は大変悲惨であったが、実物であるにもかかわらず、何か他所の次元の出来事のようなよそよそしさを感じずにはいられなかった。
このように書いて「あなたには感受性のかけらもないのか」と非難する人は非難したらいい。しかし、僕たちにとって本当に衝撃的だったたのは、一見何の変哲もなさそうな一枚の銅板だったのである。
それを見たのは、ひととおり展示資料を見終えた後、だだっ広い平和記念公園が望める休憩ロビーでジュースを飲んでいる時のことだった。ふと壁面を見たらその銅板がかかっていた。それを見て僕たちは愕然とした。
そこにはこの広い公園にかつて存在した「中島地区」の詳細な住居地図が刻みこまれていた。その町には映画館があり、床屋があり、畳屋があり、建具屋があった。寺院もあれば、時計店、八百屋、魚屋もあった。寿司屋があるかと思えば、喫茶店もあった。そして個人名の住居も数多く書き込まれていた。その地図にはまぎれもない生活の息吹が感じられたのである。
そうした生活が一瞬で消滅し、今ではだだっ広い公園になってしまっている事実、これこそが、僕たちが最も衝撃を受けた「ヒロシマ」のリアリティだったのだ。
それから5分以上の間、僕たちはその銅板の前に立ち尽くしていた。
資料館を出ると暑い日差しの中に公園が広がっていた。正面には立派な慰霊碑がそびえており、芝生では子供たちが遊んでいた。観光客がぞろぞろとバスガイドに連れられて移動している。そこにはもはや「ヒロシマ」のリアリティなど存在しなかった。
P.S.今回のドラマはこの中島地区の旅館を舞台としていた。中島地区を含めた爆心地に暮らしていた人々の生活の息吹を感じるのなら、中国新聞社が運営する「ヒロシマの記録 – 遺影は語る」の「死没者名簿」が圧倒的な情報量だ。
また平和資料館サイト内にCGで再現された中島地区の町並みと写真がある。
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