百年前の音を探し、甦らせ、聴く(その1)
色々なことを書いているこの辺境ブログだが、時折思いもかけぬ方からコメントを頂戴することがある。
そうした中のひとつでひょんな経緯から「ネットつながり」をして頂いている日本女子大学文学部の清水康行教授より、シンポジウム「百年前の音を探し、甦らせ、聴く」開催のお知らせを頂戴し、11月5日に参加させて頂いた。
このシンポジウムは、日本人の声を録音した最古の「1900年パリ録音」の全貌の公開、現在の最先端技術によるロウ管レコードの再生装置の実験、そして日本国内におけるロウ管レコードの調査報告や今後の展望などを広く知ってもらうことが目的だった。
およそ「シンポジウム」などに縁のなさそうなこの僕だが、個人的に大変興味深い分野であったし、何といっても百年前の録音を耳にすることができるというのが魅力で万難を廃して参加した次第。何しろ午前10時30分に東京の目白まで行かなきゃいけない。フツーのサラリーマンならいざ知らず、仕事がら午後型の生活時間を生きている人間からすればこれはすさまじい努力なのだが、がんばって定時に到着し、ちゃんと席におさまっていた。
当日のスケジュールはこんな感じ。
午前の部10:30-12:00 研究調査報告
10:30 開会挨拶および案内 清水康行(日本女子大学)
10:45 1900-1901年に欧州で録音された日本語音声資料群 清水康行(日本女子大学)
11:20 日本全国博物館等でのロウ管等初期録音資料所蔵状況 吉良芳恵・猪狩眞弓(日本女子大学)
午後の部13:30-17:00 国際シンポジウム
13:30 挨 拶 後藤祥子(日本女子大学 学長)
13:45 携帯型ロウ管再生装置デモンストレーション 伊福部達(東京大学)
コメント フランツ・レヒライトナー(録音アルヒーフ、ウィーン)
14:45 パリ民族音楽学研究所の録音コレクション紹介 プリビスラフ・ピトエフ(民族音楽学研究所、パリ)
コメント ゲルダ・レヒトライトナー(録音アルヒーフ、ウィーン)
16:15 現存最古1900年パリ吹込み日本語録音の全てを聴く 清水康行・児玉竜一(日本女子大学)
ちなみにドイツの方2名とフランスの方1名がいらっしゃるが、ちゃんと通訳の方がいたので、安心して聴くことができた。
大変マニアックなシンポジウム(失礼!)にもかかわらず、会場である目白の日本女子大学へ行ってみると、すでに50名以上の方々が参加していたのにびっくりした。聞けば前日あたりの朝日新聞にこのシンポジウムが紹介されていたそうだ(もしどなたかその記事をお持ちでしたら、ぜひ下さいませ)。
今回のシンポジウムの目玉となった「1900年パリ録音」に関しては以前UPした「日本人による最古の録音」の記事も参照して頂きたいが、今回シンポジウムで配布されたテキストも参考にして、かいつまんで説明をすると....
今から105年前の1900年、パリにおいて万国博覧会が開催された。この博覧会には世界各国の人々が見物や出展参加などで集まり、当時のフランスの人口に匹敵する5000万人という入場者数を記録した。そうした中、パリの人類学協会のレオン・アズレーという人物が、同地を訪れた各国の人々の声や音楽を録音し、言語学や民俗学などさまざまな角度から研究することを提唱、その結果約350本(時間にして12時間程度か)のロウ管レコードが録音された。
ちなみに「ロウ管」について若干の説明をしておこう。「ロウ管(Wax Cylinder)」とはいわゆる円盤型のレコードに先駆けて普及した録音再生メディアのこと。
円い筒状で表面にロウ(Wax)がコーティングしてあるために、この名で呼ばれている。一台の機械で録音と再生が可能なうえ、持ち運びに便利であったため、主に記録的な録音やプラベートな録音に使用されたが、その反面大量生産に向いていないのと、保存が難しい(演奏による磨耗、カビ、割れ、融解)という理由から1910年代以降は円盤型のレコードにその地位を奪われていった。
現在パリの民族音楽学研究室に保管されているこれら膨大な音源の中に、日本人による録音が残されていることを発見したのが、当の清水教授だった。本数にして14本、録音時間にして約30分前後のロウ管レコードには当時の録音記録台帳(画像参照)が現存していた。
この記録台帳によれば、7月と8月にそれぞれ5~6名程度の日本人がこのレコーディングに協力したようで、その出身地、性別、年齢、職業、語学レベルなどが記載されている。残念なことに録音者の名前はほぼ記載されていなかったが、奇跡的に最初に録音した日本人名だけが「hitomi」と記載されていた。この記録を元に清水教授は苦心の結果、その録音者の名前の特定に成功した。その結果...
1900年7月20日、人見一太郎(熊本県出身、評論家、実業家)が録音した「新約聖書ルカ伝」の中の一節「放蕩息子の帰還」が、日本人の声を録音したもので、現存かつ録音日時が特定できるものとしては最古のもの。
という結論を得たのだった。
実際のところ、同時期にヨーロッパ巡業中の川上音二郎一座の座員たちが、イギリスのグラモフォン社の手によってパリで自分たちのレパートリーをレコーディングしている。だが、こちらの方は残念なことに正確な録音日時が特定されていない。川上音二郎一座が万国博覧会会場内の劇場で興行を行ったのが7月4日~11月3日であったから、その期間のどこかということになる(当原盤を発見したJ・スコット・ミラーは「憶測の域だが」と前置きした上で8月23日説をとっている)。
清水教授によれば「まだまだ古いものが出てくる可能性がある」とのことだが、まったくその通りで1900年の段階で、日本国内に相当数の蓄音機が出回っていたことは間違いあるまい。すでに海外では量産体制に入っていた蓄音機はこれより10年以上前から国内には輸入されており、資産家ならば購入も可能であったし、「蓄音師」による見世物興行に使われたり、陸奥宗光などといった著名人が録音したという記録がバッチリ残っている。今回のシンポジウムでは吉良氏および猪狩氏による当時の国内における蓄音機報道記事の紹介がなされたが、1890年から1891年の一年間だけでも蓄音機に関する新聞記事は山ほどあり、その記事内容からみてもさほど珍しいものではなかったことが伺えた。
ただいかんせん気温差が激しく、湿度も高いこの国のことである。発見されてもどれだけのモノが再生に耐えられるかというのが、問題だったりする。
実は席上で清水教授から驚くべき話を伺った。何と夏目漱石の肉声が録音されたロウ管が現存するのだそうだ。
漱石が肉声を録音できるほどの著名人であった時期のことだから、パリ録音よりあと1910年代のものではないかと思うのだが、「すっかり白色に変色し、3回挑戦してみたが再生はできなかった」そうだ。パリ録音のロウ管が「ロッカーにしまわれていただけ」という保存状態で100年の時を越えてきたことを考えると、つくづくこの国の気候が悔やまれる。(つづく)
なお、「パリ録音」の一部は「アジア書字コーパスに基づく文字情報学の創成(GICAS)」というサイトの(タイトルの意味が..わからん...)の「パリ録音の見本」で聴くことが可能だ。
ディスカッション
コメント一覧
実名ばればれの者からです。
先日のシンポジウムには、わざわざお越しくださいまして有難うございました。その上、このような詳細な御報告をなさっていただき、感謝感激でございます。
さて、細かいことですが、幾つか補足と訂正を。
@ロウ管蓄音機の使用時期は:
1886年に開発されたロウ管蓄音機は、ご説明のとおり、円盤レコードとの市場争いに敗れ、20世紀早々に、商業ソフト用としては、ほぼ姿を消しますが、その簡便性のため(モーターもアンプもスピーカも備えていないので、電源も要らない)、個人的な録音機器としては余命を保ち、シンポに参加したレヒライトナー氏(ウィーン録音アルヒーフ)によれば、1950年代半ばまで(もうLP時代です!)現役で使われていたそうです。
@1900年パリでの日本人録音を「発見」したのは:
同録音の存在を日本に知らしめたのは、確かに「清水教授」でしょうし、その吹込み者を特定し、録音内容を分析・紹介したのは、清水が初めてです。その意味では、「発見」者だともいえましょう。
ただ、清水は、1900年の川上一座録音を発見したJ.スコット・ミラー氏が別の論文中で、同年パリでは川上一座以外の日本人も録音を残したという趣旨を1行だけ書いてあったことから、そのような録音の存在を知り、パリの民族音楽学研究所を訪ね、応対に出た人物(今般シンポに招いたピトエフ氏)に、日本人の古い録音があるそうだが、と訊いたところ、ピトエフ氏は、直ちに、その1900年録音をダビングしたテープを持ってきて、聴かせてくれた、という次第。当の録音を企画したアズレーによる報告にも、日本人のものが含まれていることが明記されています。ですから、彼の地の人にとっては、その存在じたいは、新「発見」でも何でもありません。
@「Hitomi」が「人見一太郎」だと特定したのは:
清水が記録台帳等から引き出した情報を元に「人見一太郎」なる人物を導いたのは、本シンポでフランス語通訳を務めてくれていた、清水の共同研究者・豊島正之氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)です。その後、「特定」まで至ったのは、両者の共同作業の結果というところでしょうか。
@漱石ロウ管とは:
夏目漱石が東京帝国大学で英文学を教えていた頃の学生で、広島県の名家の出身の加計正文という人物が、家を継ぐために郷里に戻ることとなり、自分でロウ管蓄音機を購入し、敬愛する夏目先生に談話を吹き込んでもらったというもの。そのロウ管現物が現存しています。録音したのは1905年、漱石が『吾輩は猫である』を発表して作家デビューしたのと同年です。
これまで複数の研究者グループが再生に挑みましたが、満足な結果は得られていません。清水も現物を拝見しましたが、残念ながら劣化が著しく、現在の我々の機器と方法とでは再生は困難と判断し、再生には挑戦していません。いずれの機会に、少しでも音を甦らせることができたら、と願ってはいます。
再生に挑んだグループの一つ、鈴木英男氏(千葉工大)らの報告書が、以下で閲覧可能です。
http://alt.szk.net.it-chiba.ac.jp/research/soseki.pdf
>実名ばればれ様
訂正と補足の詳細コメントありがとうございました。気分はレポートを提出する学生のようでございます(笑)。
>@1900年パリでの日本人録音を「発見」したのは:
なるほど、J.スコット・ミラー氏(川上音二郎音源の第一発見者)の論文にあったのですね。しかし「一行だけ」の文章を読んで、右から左に抜けようとはせず、それをこれだけの成果に持ってゆかれた意義は評価すべきものと考えます。その一行に「これは何かありそうだ」と読みを入れる勘こそが、前に進む力なのでしょうね。
>@「Hitomi」が「人見一太郎」だと特定したのは:
クロスオーバーうんぬんという話に関連すると思いますが、広く知を集めることの大切さを感じるエピソードだと思いました。それぞれの道にそれぞれの土地勘がある人がいて、全く予想外のところから答が引き出されてゆく...これがきっと研究者の醍醐味なのだろうなぁと、思いました。
>@漱石ロウ管とは:
「猫」の段階でこのような録音がされていたというのに驚きました。逆にいえばこの時期にすでにプライベート録音というものが、比較的あたりまえのように使われていたということなのでしょうね。当時のトレンドがガンガン出てくる「猫」あたりならば、漱石が書きそうなネタなんですがねぇ~。
PDFファイルも拝見しました。ロウ管を当時の状態まで削らないと、その奥底の音は聞こえてこないだろうという結論は残念ですが、当時の状態を3Dグラフィックで予測することが近い将来できたら、擬似的な再生は可能かもしれませんね。