京浜急行平沼駅

歴史の切れ端

僕は鉄ちゃんではないが、
日々教室の窓の下を走る京浜急行を見ていると、
ついこんな話もしてみたくなる。

京浜急行平沼駅の話。

はてそんな駅あったっけ?

あったんです。

横浜方面に向かう京浜急行が戸部駅を出た後、
右へ大きくカーブする。
その直後、線路の両側にホームらしきものが見える。
三ツ沢へと向かう広い道路を越えるよりは手前だ。

ホームには下へと降りてゆく階段の入口らしきものもある。
注意すれば、ホームの床が黒焦げになっているのもわかる。

これが平沼駅。
昭和20年6月10日の横浜大空襲で焼失した。

かつては両側のホームをアーチ状に覆っていた屋根が
焼け落ちて鉄骨のまま残っていたが、
近年取り壊されてしまい、今はホームだけが残っている。

僕はこの「空襲で焼け落ちた駅」の話を小学2年の時、
担任の吉川スミ子先生に聞いた。
吉川先生は戦時中から教諭をされていたベテランだった。

この話を聞いた当時は、ビルも少なかったので、
京浜東北線の車窓からでもこの鉄骨アーチがよく見えた。
水泳のオケイコで横浜駅まで通っていた僕は
家並みの中に無残な姿をさらけだすアーチを眺めながら
子供心に空襲のリアリティを感じたものだ。

もうひとつ吉川先生から聞いた話。
京急富岡駅の手前、杉田駅側にトンネルがある。

「空襲警報が鳴ったものだから、
たまたま近くを走っていた電車がトンネルの中に
停車したの。そうしたら爆弾がトンネルの入口に落とされて、
大勢の人があのトンネルの中で亡くなったのよ。
私は近くの小学校につとめていたから、
すぐ現場に駆けつけたけど、それはそれは酷いものだったわ」

おおよそこんな話だったと思う。

都市は常に変化し続けるため、記憶を残さない。

でも人は記憶を残し、それを伝え続ける....

そういう話だと思ってくれたらいい。

(東京大空襲60年目の翌日に)

歴史の切れ端