大正時代、横浜で生糸仲買人をしていた老人の話
1995年1月のこと。僕は京都北大路にある警察病院(現京都からすま病院)で、膨大な時間を持て余していた。
高校生の時に柔道で痛めた右ひざ半月板の損傷、その内視鏡手術を終えたばかりだったからだ。
1月14日に手術を終え、その3日後に阪神淡路大震災に遭遇した。
この時のことは以前に「京都で体験した阪神淡路大震災」という記事で書いたことがあるから省略する。
地震が発生した晩、念願の点滴が外れて自由に動けるようになったので、松葉杖で病院の中をうろうろする事にした。
慣れぬ松葉杖で必死な思いで売店へ行き、地震が報道された京都新聞夕刊を買ったのもこの時だ。
おっとその前に、たばこも吸ったな。
今ではありえないけど、病院廊下に喫煙所があって、そこには僕のような手持ち無沙汰な人たちが集まっていた。
ここに通い詰めているうちに、あるお爺さんと知り合いになった。
名前は中島さん。先代の柳家小さん師匠と似たような雰囲気の方だった。
中島さんは毎日ナースセンターのカウンターによりかかって、看護婦さんの仕事ぶりを見ていた。
最初は時間潰しぐらいに思っていたのだが、次第に気づいた事があった。
中島さんはガチで「看護婦さんウォッチング」をしていたのだった。
不思議とこの病院の看護婦さんは綺麗な方が多かった。彼はそれを楽し気に見学していたのだ。
「色気のあるおじいさんだな」。そう思った。
毎日喫煙所で会ううちに、中島さんとも色々と話をするようになった。
年齢は89歳との事だ。年齢に比べると随分若く見える。
何でも西陣織の工場を持っていて、今は息子夫婦に経営を譲って悠々自適らしい。
そんな他愛のない会話の中で、私が横浜の出身だと言う話をしたら、こんな返事がかえってきた。
「わしも横浜に住んでいたことがあるよ。むかし横浜で生糸の仲買人をやっていた」
僕が驚いて「いつ頃の事ですか?」と尋ねると、
「関東大震災の前だよ」。
中島さんはそう答えた。
計算に間違いなければ中島さんは明治39年(1906年)頃の生まれという事になる。
まずは大阪の商家に奉公に出たらしい。
大変モテたそうで、こんな艶っぽい話も聞いた。
「16歳の時、寝ていたら上に女中が乗っかっていたので、びっくりしたよ」。
大正という時代は、現代と違って性に関して奔放な時代だったようだ。
その商家を辞して、横浜で生糸の仲買人となったのは、それからすぐの事だったようだ。
生糸の仲買人とは八王子あたりまで行って、生産者から生糸を仕入れ、横浜の商家にそれを納品するというもの。フリーランスな仕事なのだろうけど、彼が出入りする商家は決まっていた。
僕はその商家を「原なんとか郎商店」と言っていた。固有名詞までは忘れてしまった。
とにかく「原」姓だった。
横浜生まれなので「原」といえば三渓園で有名な原富太郎(原三渓)がいるという知識はあった。
「原三渓ではないのですか?」と尋ねたが「いや違う」とハッキリ言われたのは覚えている。
今回、この記事を書くにあたって再度調べてみた。
原富太郎の孫である原善一郎という名前に行き当たった。
彼は富太郎の養子となり中区弁天町3丁目50で『原合名会社』を経営していた。
中島さんが言っていたのは「原善一郎商店」だったのだろうか?
そんな名前だったような気もするが、どうも記憶が定かではない。「弁天町」と言っていたような記憶も確かにある。
とにかく覚えているのは、原なんたらは野毛に立派なお屋敷を構えていたという事、お嬢さんがいたという事だ。
中島さんは何度かお嬢さんのお供をした事があり「大変綺麗な人だった」とそう語っていた。
そして大正12年9月1日をむかえた。
中島さんが昼食を取ろうとお店を出た瞬間だった。ゴーッという音とともに大地が揺れ始めた。
関東大震災の発生だ。横浜を震度7の激震が襲った。
「もう背後でお店がぺしゃんと潰れたんだよ。本当に危なかった。すんでのところで命拾いした」と語っていた。
その先の話は、現代人の感覚とは違う。
「お店の人はみんな死んだと思った。もうこんな怖い所にはいられない。このまま関西へ逃げよう」と即座に思い立った。その足で横浜から逃げ出したのだそうだ。
最初は東海道本線沿いに歩いて逃げようと横浜駅方面に向かった。しかし石油タンクが爆発して大きな火災が発生していたので諦めたのだという。どうもこれはライジングサン石油会社の石油タンクが平沼にあって、震災直後に爆発炎上した事を示すようだ。
ではどうやって横浜を脱出するか?
彼が覚えている脱出路がもうひとつあった。それが「峰の灸」だった。
磯子区にある護念寺は江戸時代からお灸で有名な所で、落語『強情灸』の舞台にもなったお寺だった。
中島さんは仕事仲間と行った事があったので、ここなら土地勘があった。彼は護念寺から鎌倉へと抜ければ、いずれ東海道へたどり着くだろうとそんな風に考えた。
僕は隣町の洋光台の出身だから、こういう話を聞いても、頭に地図が描きやすかった。
中島さんは、おそらく大岡川沿いに上流へと向かったのだろう。
大正の御代の横浜の市街地なんてたかが知れている。蒔田・弘明寺を越えれば上大岡あたりは田園風景が広がっていたはずだ。上大岡から「金沢道」で打越、栗木へと進む。
「円海山道」なんて単語は江戸人しか使わなかっただろうけど、栗木からこの道に入って峰までたどりついたのだろう。
その先、中島さんがどんなルートを辿ったのかはわからない。
円海山から南下して鎌倉の瑞泉寺付近へと抜けたのか、西に進んで上郷・公田・大船を越えて東海道に出たのか?
おそらくは後者だったと思うけど、当の中島さんも覚えていない。
土地勘のないまま、人の流れについていったのだと思う。
考えてみれば関東大震災の震源地は神奈川県西部もしくは相模湾だったわけだから、中島さんはより被害が甚大な地域へと突入していった事になる。どうやって落橋した酒匂川を渡ったのだろう?壊滅的な被害を受けた小田原の街を通り抜けたのだろうか?崩落が甚だしい箱根の山をどうやって抜けたのだろう?と考える。想像を絶する苦労があったに違いない。
それにしても、阪神淡路大震災の直後に関東大震災の体験談を聞くとは思わなかった。
どうも自分はそういう星には恵まれているようだ。
その後、大阪の商家に戻った中島さんは、何年か後に京都へと戻り西陣織の工場を立ち上げたそうだ。
その後は中島さんの女性遍歴、色恋話を延々と聞かされた。
とにかくあれだ。
大正時代の生糸の仲買人が平成の時代に現存しているなんて奇跡的な事に思えた。
僕はわざわざ三渓園の電話番号を調べ、京都から長距離電話でその事をお教えした。他に思いつく連絡先もなかった。
オーラルヒストリーの聞き先としてはうってつけだろう。職員の反応は驚きに満ちたものだったが「個人的には興味はあるのですが...」という話で終わってしまった。
一か月ほどの入院生活が終わり、僕は退院した。あとはリハビリ通院を重ねていた。
中島さんもほどなくして退院されたと記憶している。
3月、中島さんから「我が家においでなさい」と電話がかかってきた。
僕は中島さんの家を訪れた。北大路の大徳寺前から細かい路地を下がったところだった。
京風の間口の狭い建物が家内制手工業そのままに西陣織の工場になっていた。織物の機械が何台も動いていた。ひとしきり昔のアルバムなんかを見せて頂いて教えてもらったのは、戦後に中島さんが結核をこじらせて深泥池近くのサナトリウムで療養していたという事だった。そして、近所のお店でうなぎをご馳走になった。
4月、中島さんが再び入院したというので、お見舞いに行った。
あれだけ元気だった中島さんはすっかり弱ってしまっていた。その変貌には驚くばかりだった。
「今度はもうだめかもわからんね」
「もう少しで90歳じゃないですか。頑張りましょうよ」と僕は励ました。
それが中島さんと会った最後だった。
5月に息子さんから電話があり、中島さんが亡くなったと報告があった。
弔問に訪れた僕は、息子さんと色々と話をした。
「若いころは女性にモテたようですね。色々と武勇伝を伺いましたよ」と言うと、息子さんは首をかしげてこう言った。
「いやぁ、極めて真面目で堅物の親父でしたよ。体を壊した事もあり、そりゃあもうおとなしい人生でした」。
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