野良猫クーの一生

おみおくり

平成から令和になる前に、書いておこう。

今から10年前、私は「野良猫まみ子の一生」という記事を書いた。
2003年3月頃、裏の物置で純粋野良猫の「まみ子」が3匹の子猫を生んだ。
その猫たちの物語だ。

餌を与えなきゃかわいそうだということになった。猫たちの最も古い画像。一番手前で背中を向けているのがクーちゃん(2003年6月9日)

子供たちは成長するにつれて最初は恐る恐る、やがて大胆に我が家に出入りするようになった。それとタイミングを合わせるかのように「まみ子」は隣にある公園へと戻ってしまった。3匹の子猫は野良猫だったけど、昼はどこかを歩き回り、夜はテラスか屋内で暮らすようになった。

取り残された3匹。左からチャコ、クーちゃん、シーちゃん(2003年9月)

そして1年ほどたった時には、 「シーちゃん」はお隣の家へ住み着き、「チャコ」は行方不明になってしまった。「クーちゃん」だけが我が家に残った。

3匹の名前はいい加減なものだった。猫たちの色が茶、白、黒だったため、色名で識別しているうちに、自然とそういう名前が命名されてしまったのだ。

クーちゃん(手前)とまみ子(後方)2008年

「まみ子」が2008年の年末にこの世から姿を消したのは「一生」で書いたとおりだ。実は父猫と思われる「パピ夫」という巨大な野良猫がいたのだけど、彼もいつしか公園からいなくなってしまった。一説には誰かが毒入りの餌を与えて「パピ夫」を殺してしまったとも言われている。あの公園にはいつも5~6匹の猫が暮らしていて、人知れず増減を繰り返していたように思う。

テラスからこちらを凝視するクーちゃん(2011年6月)

クーちゃんは、どちらかと言えば臆病で大人しい猫だった。「まみ子」は一番彼女を可愛がっていた。子供たちと4匹で寝ている時、クーちゃんだけはまみ子の腕の中で寝ていた。

親や兄妹と離れ離れになってからは、彼女も一匹で生き始めた...いや、我々人間族と生き始めた。すぐに娘たちとは一緒に寝るようになったけど、どうも私は敬遠されていたようだ。

理由はわかっている。彼女を立たせて「進化に挑戦だ」と歩かせようとしたり、「猫じゃ猫じゃ」の節回しで化け猫踊りをさせたからに違いない。

「猫ぢゃ猫ぢゃ」

娘が「クーちゃん、一緒に寝よか?」と言うと「アーン」と答えて一緒に階段を登ってゆく。会話が成り立っているのに対して、私が呼び掛けてもせいぜい尻尾を動かす程度だった。

侵入野良猫を威嚇するクーちゃん(2011年6月)

彼女は朝起きると我が家の壊れた換気口を通って外出する。昼間はどこへいるのかわからない。夕方になると戻ってきて、我が家でくつろいでいる。そんな生活だった。

そして2013年前のことだ。我が家は新居に引っ越す事が決まった。
その時、家族が考え込んだのが今後「クーちゃんをどうするか?」という問題だった。転居先はマンションだ。今まで10年の間、半野良猫暮らしをしていた彼女が、果たして「家猫」として暮らすことができるのだろうか?

そこで動物病院の先生に相談したら、こう言われた。
「猫という動物は"そこが安全な場所である"と理解したら、今の生活と違っても、どこでも暮らす事ができるんです。生まれてから13年間、ケージの中で暮らしている猫もいますよ」。

それで彼女は晴れて「家猫」に昇格した。
新居の壁をいきなり爪とぎの対象にされたのにはさすがにヘコんだが、10歳猫のクセにトイレトレーニングもこなし、特定の場所で爪もとぐようになった。

家猫化したクーちゃん(2015年12月31日)

子どもたちも成長した。彼女たちにとってはクーちゃんは物心ついた時からの家族に他ならなかった。ただし人間と寝ることは元来危険を伴った。運悪く長女と一緒に寝ている時、長女が誤って彼女の顔を蹴飛ばしてしまったのだ。それで片方の牙が取れてしまった。

以来、彼女は長女より次女と寝るようになった。

片方の牙を失ったクーちゃん。

野良猫の寿命は3歳から5歳と言われている。彼女はすでに引っ越し時に10歳を超えていた。「半野良猫」という曖昧なライフスタイルの猫がはたしてあと何年生きられるのか?いつお迎えが来てもおかしくはないと思っていた。

獣医さんにに言われた事がまさにそうだった。「今日の血液検査結果が良好でも、明日が良好とは限らない」「13歳から先は天から授かった命」。

それから5年の歳月が過ぎた。
彼女は今の家に住み始めてから、妙に私と仲良くなったように思う。驚いた事に私の部屋にやってきて、こうしてblogを書いている私の横で寝たりもした。

「みんなが元気がどうか見回りをしているのだろう」と家内に言われた。

「餌を食べる量が減ってきた、おかしい」となったのは昨年末の事だった。一時的に薬によって体重は回復したが、その後再び体重は減り始めた。

3月2日、動物病院でCTIスキャンと血液の精密検査を行った結果は残酷なものだった。「リンパ腫(血液検査の最終的結果は腺癌)と思われる、しかも広範囲に転移。とりわけ小腸の腫れは深刻」。

検査翌日のクーちゃん(2019年3月2日)

この時点で先生には、彼女の命脈が読めていたんだろう。我々に言った。「無理して延命するよりは、自然に従いましょう」。

でもこの段階では彼女が死にゆく事を我々は事実として受け容れられなかった。いや、受け容れる心の準備もできていなかった。無理に装置や管漬けにして延命というのは考えていなかったが、薬品の投与で何とかならんものかと、それだけを考えていた。

3月4日

そうした考えが、どうしようもない事は、彼女自身が教えてくれた。
つくづく思ったのは、猫というヤツは誇り高い生き物だってことだ。当たり前だろうけど、泣き言を言うわけじゃない。静かに静かに行動が減り、静かに静かに横たわり、そして弱っていった。

我々もまた日を追うにつれて、彼女に訪れる「死」というやつを徐々に受容していかざるを得なかった。

3月5日
3月5日

3月5日を境に、目に見えて彼女は弱っていった。自分に起こっている事が理解できずに呆然としているようにも見えた。なるべく体を温存しているようにも見えた。手負いの猫は押入れの中など静かな場所に隠れて寝ようとするものなのだけど、彼女は最後まで家族と一緒に寝ていた。

彼女には元来面白い所があった。「クーちゃん」と呼びかけると「にゃあ」と返事するのだけど、「猫」と呼びかけても絶対に返事をしない。返事するのも面倒な場合は尻尾だけを振る。

この日以来、彼女は声で反応することはほとんどなくなり、尻尾でしか反応しなくなった。

3月6日になると、目を閉じなくなってきた。時折よたよた歩きながら、トイレに行ったり娘を探しに行ったりはしていた。食事はほとんど食べない。

小腸が癌細胞で狭められているから、食べても体の中を通り抜けてくれないのだ。「食事を食べなくなると、持って一週間」という獣医さんの言葉が急に重みを増してきた。

3月8日

耐えられなくなった家内が獣医さんに電話して点滴の相談をしたが「もう天命に従いましょう」と言われた。我々はそれに反発する事はなかった。むしろ今まで以上に冷静になった。いよいよ彼女の死を受け入れる時が来たのだと覚悟した。

「ホタテ缶なら食べるかもしれない」と言われてそれを買いに走り、彼女の前に差し出したら、ちょっと食べた。これが最後の食事だった。

3月9日、最後の歩行

翌3月9日になると、次第に体温が下がり始めた。もはや呼び掛けても鳴き声で返事はしなくなったが、それでも尻尾で返事だけはし続けた。
この日の夜、次女の部屋まで歩いたのが彼女の最後の歩行となった。

3月10日は日曜日だった。彼女の体はすっかり冷たくなり、目は見開いたまま。わずかにお腹で息をしているのみとなった。もはや尻尾も反応しなくなった。

3月10日、亡くなる5時間前

私は用事があって昼過ぎから家を出なければならなかった。もうこれが最後のお別れだと覚悟していた。クーちゃんに向かって「長い間ありがとうな」と声をかけて家を出た。

用事を終えたのが18時30分ぐらいだったろうか。
車に乗って程なく、家内から電話がかかってきた。その内容はわかっていた。

「18時10分頃だった」と家内が言った。

車を路肩に停めると、外に出て煙草を一服吸った。見上げると空は漆黒の闇だった。闇の中から降り落ちてくる小雨に打たれながら、彼女と過ごした16年という時間の事を思った。

私は子供の頃にみた「猫は生きている」という映画の事を思い出していた。

時代は太平洋戦争の待っただ中、舞台は東京下町のある家族の家だ。その縁の下で野良猫が4匹の子猫を生んだ。

物資の乏しい中、人間も猫も生きてゆくのに必死だ。そして運命の昭和20年3月10日、東京大空襲がこの両家族を紅蓮の炎で蹂躙した。

人間家族は亡くなり、猫の家族のだけが生き延びた。猫家族は新たな住まいを探して焼け跡を去ってゆくという話だった。

「猫は生きている」。クーちゃんの死を機会に買ってしまった。

以前から私にとっては3月10日は特別な意味を持った日だった。人間の生と死について考える日だった。生きているからこそ感じる事のできる喜怒哀楽について思いを巡らす日だった。 そこに8年前から東日本大震災が発生した11日が加わった。

74年目のこの日に彼女が亡くなった「意味」について小雨の中で考えてみた。でもその答は出なかった。もしかしたらその答は自分が死ぬまで出ないのかもしれない。

その時、家内と次女は炬燵でテレビを見ていたらしい。上の写真のように脇にいた彼女が、突然頭をもたげたらしい。そして口からフーッと大きな息を吐いた。

二人はとても冷静だったそうだ。口から息を吐くインターバルを計ったんだそうだ。最初は10秒、次は30秒、次は1分、そこで呼吸が止まった。時計をみたら18時10分だったらしい。

今でも「良かった」と思うのは、彼女の病名が3月2日時点まで判明しなかったことだ。何十日も徐々に弱ってゆく彼女を見るほど苦痛な事はなかったはずだ。

余命がいくばくもない事を知り、最初は戸惑いながらも、わずか8日という時間の中で彼女を見送れた事は、我々にとっても幸福だったのかもしれない。

翌日、会社は休みだった。
家に居てもむしゃくしゃするので、次女を連れてペットの斎場まわりをしてみた。何軒か回った上で、決めたのが 戸塚区の小雀にあった「 ポチ・たま霊園 」だった。 丁寧に見送りがしてもらえそうだと思ったのと(実際、人間以上に丁寧なお見送りができた)、この付近は頻繁に通る道なので、将来お骨を納骨堂に入れた場合、ここだったらお参りしやすいし、思い出しやすいだろうと思ったのだ。

3月14日、ポチ・たま霊園から見上げた空

3月14日、彼女は煙となって天に昇っていった。
彼女は平成という時代と一緒に天に昇っていった。

エサだけがやたらと残ってしまった。

さて「人間は元来罪深い生き物で、だからこそ亡くなった後に罪を悔い改めるために戒名をつける」のだそうだ。

だとしたら猫はどうなんだろう?

猫はしばしば「畜生」と蔑まれるが、罪深い生き物ではない。人間に比べれば「善」として生きてきた。我々を癒してくれた。だから戒名をつける必要はないのだという。

しかし人間は私も含めて愚かな生き物だ。彼女があの世へ行っても「畜生」ではかわいそうだと考えてしまうものだ。無意味な事だとはわかっていたけど、どうせならばと戒名を紙にしたためて、一緒に燃やしてもらった。

「宗猫院美空仁愛大姉(そうびょういんびくうじんあいだいし)」といういささか立派すぎる戒名に子供たちは大笑いしていた。

だが、いまだにそれを呼ぶ家族はいない。朝起きると骨壺に向かって「クーちゃんおはよう」、夜帰ってきて「クーちゃんただいま」の日々が続いている。

せっかく「美空(美しいクーちゃん)仁愛(にゃあ)」と読めるようにしたのに....

結局のところ猫は猫なのだ。立派そうな戒名なんていらない。そして我々の中では「クーちゃん」はどこまで行っても「クーちゃん」として記憶に刻まれてゆくのだろう。

おみおくり