延長25回と防空大演習の頃
友人がFacebookで「全国高等学校野球選手権大会100回史」を購入したと書いていた。どうも予約完売だったようだ。Amazonでみたらすでにプレミアがついていた…..てか転売するの誰だよ(-_-;)
そんな本出版されていたんだ、ちょっと読んでみたいと思った。その「ちょっと」という部分が、伝説の中京商業 対 明石中学の延長25回戦。
昭和8年(1938年)8月19日に甲子園で行われた中京商業と明石中学の準決勝戦はゼロ対ゼロのまま延長戦に突入、25回裏の中京商業のサヨナラ勝ちであっけ無く幕を閉じた。総試合時間4時間55分とともに、いまだこの大会記録は破られていない。
さて、実家の裏の納屋で猫が生まれたという話を前回書いたばかりだけど、この納屋からは子供時代の本が大量に出てきたこともある。どれだけワンダーゾーンな納屋なんだろう。 今となっては貴重な本の数々、よくもまあ捨てられずに残っていたものだと驚いた。
これは当時「ふくろうの本」と呼ばれていた「少年少女講談社文庫」の一冊で、「甲子園・熱球物語」。 僕のは昭和49年(1974年)の第三刷。 作者は児童文学作家の砂田弘(1933-2008)さんだ。
はじめて「延長25回」のエピソードを知ったのが、この本だった。第一部は「甲子園を熱狂させた名勝負」と題して2つの名勝負を紹介している。
ひとつは昭和44年8月18日、甲子園史上初の決勝戦再試合となった松山商業と三沢高校の延長18回。そしてもうひとつがこの「延長25回」だった。
当時から古いものに惹かれる妙な子供だった。だから最近の……と言っても今年で50年になる……「18回」よりも「25回」を熱心に読んだものだ。
中京商業はピッチャー吉田正男と、後にドランゴンズの監督となった野口明のバッテリー。吉田は二回戦で返球を受けそこねて2針を縫う怪我をしていた。いっぽうの明石中学は体調不良の楠本保ではなく中田武雄を送り出した。
9回裏、明石中学はノーアウト2・3塁で最大のピンチを迎える。中田武雄は 中京の田中を敬遠で満塁策へ。
つづく第四球、中田の投じるインドロを、神谷のバットがはっしととらえた。わっとあがる歓声、サヨナラヒットか。だがつぎのしゅんかん、ライナーが中田のグラブにすいこまれていた。ボールはすぐに三塁に転送されてダブルプレー、中京商の絶好のチャンスはつぶれた。
甲子園・熱球物語
そこから25回まで果てしない死闘が続く。20回を越えたあたりから選手に疲労の色が目立つようになる。
「キャッチャーは、バックネットのフライを追う元気がないようです。ピッチャーの一塁けんせい球もどうやらとどきかねるほどに、選手たちに疲労の色が見えています!」
甲子園・熱球物語
ネット裏で、実況放送をつづけるNHKの高野アナは、選手たちのプレーをそう伝えた。
炎天下で意識が朦朧としていたのかもしれない。明石中学の楠本が軽くスイングをしている時、後方にぼんやり立っていた選手の顔面にバット先が当たり、医務室に運ばれるというハプニングがあったのもこの時だ。
そして25回裏、 再びノーアウト満塁で中京商業にチャンスが訪れた。 大野木浜市の放ったセカンドゴロを明石中の嘉藤栄吉がバック-ホーム。 しかし嘉藤があわてたため、この球が高めとなり、あっけなく中京のサヨナラ勝ちとなってしまった。
「軍国主義の時代だっただから、このような無茶がまかり通った」なんて言う文脈で語られるこの試合だけど、昭和8年8月19日の時点では、まだまだ日本はのんびりした時代だったと思う。
この試合では、20回を越えた所で大会本部が「再試合」を打診したが「相手が"止める"と言うまでは、うちは止めない」と言い合ったのだそうだ。これはまあ日本人らしい「意地」であり、トップダウンで押し付けられるような「軍国主義」とは関係ない。
最終的に本部は25回を終了した時点での試合打ち切りを決定したが、その矢先のサヨナラだった。
実はこの試合の直前、8月9日から11日まで陸軍の主導で「関東防空演習」が行われている。今までは陸軍が独自に演習を行ってきたが、「吾等の首都は吾等で護れ」をスローガンとして、初めて一般市民(在郷軍人会、青年団、少年団、婦人会)の「協力」を得て行われた防空演習だった。多くのメディアがそれに協力し、NHKではラジオで実況中継を行っている。
実はこっちの方が危ない危ない。「協力」はやがて組織化され、組織化された軍民一致体制は、やがて総力戦へと続いてゆくことになるからだ。
そんな中、信濃毎日新聞主筆だった桐生悠々(きりゅうゆうゆう)が8月11日に「関東防空大演習を嗤ふ(わらう)」という社説を発表する。
要約すると「こんな演習をやっても役には立たない、なぜなら敵機が関東で空襲を行う時点で時すでに遅し、すでにそれは敗北である。もし敵機が東京で空襲をしたらどうなるだろう。木造家屋だらけの東京はひとたまりもない。いくら訓練をした所で恐怖の本能には勝てず、各所の火災は阿鼻叫喚の地獄となり、関東大震災以来の惨状となり、それが何度も繰り返されるからだ。」と、12年後の日本の姿を予言している。
さらに続く。
「むしろ、いかにして敵機の日本侵入前にそれを阻止するか、その防御方法を検討する方が大切であって、そうした事を前提とした演習でなければ、役に立たないと言いたいのだ。もう一つ申せば、赤外線や自動操縦による爆撃だって夢ではない時代が来る。灯火管制なんて市民をパニックにするだけだ」と、何十年後の戦争の姿まで予言している。
この社説、陸軍の怒りを買ったわけだが、同じ年に起こった「ゴーストップ事件」のように「軍」として直接的には動かない。信州の在郷軍人会である「信州郷軍同志会」が信濃毎日へ謝罪文と桐生の退社を要求、そして不買運動を行った結果、桐生悠々は退社に追い込まれた。
一般の市民が総力戦に取り込まれてゆく、そしてメディアが圧殺されてゆく、そんな転機となったのが昭和8年の「熱い夏」だったのではないか。そんな中で彼らは清々しく25回を戦い抜いた。
総力戦は野球選手であろうとなかろうと容赦なかった。この「25回」を戦った選手たちの中から、少なくとも8名が戦死している。
明石中学
中田武雄 [昭和18年7月22日 ソロモン諸島で戦死]
楠本保 [昭和18年7月23日 中国戦線で戦死]
松下繁二 [戦死日、戦死場所不明]
中京商業
鬼頭数雄 [昭和19年7月頃 マリアナ諸島沖で戦死]
神谷春雄 [戦死日、戦死場所不明]
福谷正雄 [戦死日、戦死場所不明]
加藤信夫 [戦死日、戦死場所不明]
花木昇 [戦死日、戦死場所不明]
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