「1970年大阪万博の軌跡」展

ぶうらぶら

1970年の夏、家族で大阪万国博覧会へ行った。その時僕は4歳と8ヶ月だった。

車中、車に酔ってしまったのだろう。途中で寝てしまい、目がさめたら宿泊先の布団の中だった。
トイレに行きたくなったので、母親に連れられてトイレへと行った。
その時だった。廊下の窓から万博の会場が見えた。

鮮やかなライトにこうこうと照らされた会場が、暗闇の中でハッキリと浮かび上がっていた。絵本でしか見たことのない「完全図解、21世紀の町はこうなる!!」の実物がまるでそらからでも降りてきたかのように光輝いていた。
「みらいのまちだ」。
そう思った。
日本万国博覧会
(万博会場にて。シェーをする僕。背後にはソ連館と動く歩道が見える)

さて先週の日曜日、「妙心寺展」を見た我々は国立科学博物館へと移動、今度は「1970年大阪万博の軌跡」展へ。1970年に大阪で開催され6,400万人という史上最高の観客を動員した博覧会の遺産を回顧しようという特別展だ。ハードスケジュールだが、わずか半月という短い開催期間なので、この日を狙うしかなかった。
太陽の塔

まずは日本館の衣装(レプリカ)を着た人形がお出迎え。
「1970年大阪万博の軌跡」展
このデザイン、未来の人はこんな服を着ているに違いないって断言している。でも今みるとデパートのエレベーターのお姉さんの懐かしい制服だ。小西康陽あたりが見たら卒倒するだろうな。

全体的にはパネル展示が主で、なんとも「ちゃちぃ」展示だったが、貴重な現物も拝むことができた。
今回の目玉だと勝手に思ったのが、当時サンヨー館に設置されていたウルトラソニックバス(人間洗濯器)。
サンヨー館人間洗濯機
よくもまあ現存していたものだ。このレトロフューチャー感がたまらない。
サンヨー館人間洗濯機
サンヨーによれば、「カプセル内に座っているだけで清潔になるだけでなく、超音波とマッサージボールによって美容と健康の両方に効果がある全自動バス」だったそうで、当時会場で水着姿の美女が入浴すると黒山の人だかりになったらしい。

なお、当時の使用風景がこれだ。
サンヨー館人間洗濯機
どうも髪を洗う機能はなかったようだ。
SANYOによれば現在この技術は介護用の浴槽として使われているそうだが、より身近に接する機会が多いのは美容院にあるオートシャンプーだろう。
僕はリアルタイムでこのマシンを見ていないけど、「人間を洗う洗濯機がある」という話だけは小耳に挟んだようだ。当時我が家の洗濯機の中に入って、親にこっぴどく怒られたものである。

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面白いのはコレ。これまたサンヨー館にパネル展示されていたもので「インフォメーション・システム(万能テレビ)」。「①テレビ②ビデオ装置③デレビ電話④16ミリ映写装置⑤電子式計算機⑥工業用テレビ⑦電波新聞⑧ステレオの8つの情報機能を画面に呼び出せる未来の家庭用情報センター」なんだそうだ。多少の見当違いはあるものの、これって現在のPCや携帯電話そのものなんじゃないだろうか。

万博携帯電話
当時の名前は携帯電話じゃなくて「ワイヤレスホン」。13桁の電卓としても使用できたそうだが、液晶画面もないのにどうやって計算できたのだろう?ちなみに当時のお値段は30万円だったそうだ。問題はバッテリー。1993年当時の携帯電話でもせいぜい30分の通話が限界だったから、1970年当時の無線電話なんて10分も持たなかったのではないかと思う。

太陽の塔の内部
お気づきの人もいるかと思うけど、僕の職場には何年も前からちっこい「太陽の塔」が飾ってある。僕なりに大阪万博に敬意を表して買ってきた。日本版「猿の惑星」を製作する場合は、人類の破滅を予想させるラストシーンでは絶対に崩れ落ちた太陽の塔を使って欲しいと願っている。
さて、これは太陽の塔の内部にある「生命の樹」のレプリカ。当時は円谷プロが製作を担当したらしい。現在も塔内部には(やや崩壊しながらも)現存しているそうだ。

日本万国博覧会
(背後のパビリオン名はわからない。相変らずシェーをしている僕。これ以外にも太陽の塔の前で撮影した写真があったはずだが、見つからなかった)

さて、万博での記憶はいくつかある。まず蝶の絵が描かれたワッペンを胸につけれられたこと。実はこれは迷子札になっていて、通しナンバーが打たれていた。親が持っている半券に同じ番号が打たれているから、保護された子供はコンピューターにナンバー登録される。親はどこに保護されているかをナンバーで照会する、というわけ。

それと「動く歩道」、これが僕は一番楽しかったようだ。
歩道の上を走ったら突然「動く歩道では走らないで下さい」とアナウンスで注意されたことを覚えている。そして「動く歩道」を降りたところに、子供が這い上がれるぐらいの小さな透明なドームがあったので、そこによじ登ろうとしたら「よじのぼらないで下さい」とこれまたアナウンスで注意されたことを覚えている。

どこからともなく様子を見られていて(監視されていて)、どこからともなく注意のアナウンスが入ることに、とても「未来の都市」を感じたものだった。そう、僕にとっては、未来の社会は、誰もがどこからともなく監視されているものだった。この点において、万博が提示した未来は当たったと思っている。
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会場でパビリオンを見た記憶は2ケ所しかない。
ひとつは巨大なドームの中に入って、360度ぐるっと映像が流れる映画を見た、という記憶だ。これが当時の「みどり館」に間違いないと確信したのはずっと後のことだった。一度に千人に映画を見せることができたそうだから、そんなに並ばなくても見ることができると、親は読んだのだろう。でも僕はこの建物を周囲をずいぶん長いこと並んだという記憶が鮮明に残っている。
それともうひとつは東南アジア系の面白くもなんともないパビリオン。マレーシア館とかフィリピン館とかそんなノリだったと思う。ウチの親父が東洋系の綺麗なお姉さんに必死に話しかけていたのを、4歳8ヶ月の子供は忘れていない。
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僕の家族には長時間並んで「月の石(アメリカ館)」を見るようなガッツのあるヤツはひとりもいなかった。おそらく行列の長いパビリオンを避けて、スッと入れるパビリオンだけを狙ったのだろう。
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「未だ(いまだ)来ない」と書いて「未来」と読む。
あれから39年がたち、21世紀も8年が過ぎた。ところがいまだにエア・カーも円形の家も空中都市も登場していない。真空パイプで各家庭に食材が供給されるというシステムも、自動調理ロボットも家庭にはお見えしていない。月面基地はまだ建設されていないようだし、「人類の進歩と調和」が一層進んでいると思いきや、そうでもないようだ。「昭和60年には開通する」といわれていたリニア・モーターカーに至っては、未だに山梨付近を行ったりきたりしている。

あの暑い夏に僕の眼前に提示された「未来」は、その多くが履行されておらず、あの時に誰もが見たであろう同じ「夢」だけが、僕の心には強烈な印象とともに刻まれている。
29年ぶりのシェー
(1999年に29年ぶりに太陽の塔を訪れた時の写真。長女と一緒にお約束の「シェー」)

ぶうらぶら